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(四十五 ) 霧の村のほっぱん記

祟りか、病か。霧の村が抱えた百年の謎。


大正八年のこと。


土佐国の山深く、霧に閉ざされた伊田の村は、静かに息を潜めていた。


深い森が村を囲み、細い川がわずかに流れを奏でるが、それは決して大きなものではない。


村人たちは古い家々に寄り添い、代々受け継がれた田畑を耕す日々を送っていた。


しかし、毎年のように、村を襲ったのは、名主の祟りと呼ばれる恐ろしい影だった。


「ほっぱん」。


村人たちが震える声で囁くその病は、突然に訪れる。最初は小さな赤い斑点が肌に浮かぶ。


やがて高熱が体を蝕み、うわ言を漏らしながら、苦しみの中で命を落とす。


死者の目は虚ろに開き、まるで何者かに魂を吸い取られたかのようだった。


村の古老たちは、これを掛川信吉の祟りと信じていた。


信吉は、かつての名主。村が御上の所有する材木を無断で使った罪で、自害を命じられた男だ。


切腹の痛みと恨みが、村に残る呪いとなったという。


そんな中、慰霊塔を建てて祟りを鎮めたいという村人の願いに応じ、


民俗学者の佐久間妖道が助手助川清彦を伴って伊田にやってきた。


妖道は旅によって鍛えられた体躯に、鋭い眼光を宿した男。


古い書物と怪奇な伝承に囲まれて生きてきた彼は、祟りなどというものを信じず、伝承としてのみ受け取った。


だが、村人たちの話に耳を傾けながら、妖道の心に一抹の疑念が芽生えた。


「赤い斑点、高熱、うわ言…これは祟りではなく、病だ。ツツガムシに似ている」と妖道は独り呟いた。


ツツガムシ病は、ダニに刺されて起こる熱病。刺し口に瘡蓋ができ、発疹が広がる。


しかし、それは大きな河川の近くで流行るもの。この伊田には、そんな川がない。山間の小さな流れだけだ。


妖道は村を歩き、死者の家を訪ねた。


空気は重く、死の臭いが残っていた。家族たちは怯え、祟りの話を繰り返すばかり。


助手清彦は、そんな調査に付き合いながらも、早くも退屈を隠せなかった。


四十代半ばの男で、妖道の助手とは名ばかり。好奇心は旺盛だが、根気がない。


村人に温泉の場所を聞くと、「先生、ちょっと行ってきますよ」と妖道を置いてさっさと出かけてしまった。


妖道はため息をつき、一人で村の奥深くへ足を運んだ。


そこで出会ったのが、沢田文五という少年だった。十歳とは思えぬ、鋭い目をした子であった。


村の外れの小さな家に住み、つかず離れず妖道の後を追っていた。


妖道が気づくと、文五は小さな紙片を差し出した。


「これ、見てください」


それは、村で起きた「ほっぱん」の記録だった。


死亡者と生還者の系譜が、細かく記されている。すべて水辺の仕事に従事した者たち。


夏の間に発症し、赤い発疹が紫色に変わると、必ず死ぬ。刺し口の瘡蓋まで、詳細に描かれていた。


妖道は驚愕した。


少年の観察眼は、学者顔負けだった。


文五は言う。


「村で変なことが起きると、いつもメモするんです。祟りって、怖いけど…知りたいんです」


妖道は頷き、少年の肩に手を置いた。


「この病は、いずれ誰かが解き明かす。そのとき役に立つのは、お前のような者の記録だ」


文五の目は輝いた。以後、彼は「ほっぱん」の事例を一つひとつ書き留めると約束した。


夜が訪れると、村はさらに不気味になった。霧が立ち込め、木々がざわめく。妖道は宿で記録を読み返した。


発疹の色、瘡蓋の位置、死者の最期の言葉。すべてがツツガムシ病を思わせる。


だが、なぜこの村で?


妖道の脳裏に、信吉の影が浮かんだ。切腹の刃が腹を裂く音、血の臭い、恨みの叫び。


祟りは本当に病なのか、それとも…。


眠れぬ夜、窓辺に立つ妖道の前に、ぼんやりとした人影が現れた気がした。信吉の亡霊か? いや、ただの霧の幻影だ。


翌朝、清彦が戻ってきた。顔色が悪い。


「先生、温泉でヤブ蚊に刺されて…瘡蓋ができて、死ぬんじゃないかと」


彼は頭皮を掻きむしり、騒ぎ立てる。


妖道は笑みを浮かべた。


「瘡蓋はツツガムシ病の印だよ、清彦君。君も祟りに遭ったのかもな」


清彦は青ざめ、怯えた目を向けた。


妖道は本当のことを教えず、ただ少年の記録を思い浮かべた。


「本当の助手とは、沢田少年のような存在だ」


妖道は、本当の解決には時間がかかると考え、慰霊塔の建立を勧めて、村を後にした。


だが、文五のメモは残った。


「沢田メモ」と呼ばれるそれは、数十年後、佐々学の手に渡る。


昭和二十六年、佐々学が伊田を訪れ、「ほっぱん」をツツガムシ病と確定した瞬間、祟りの仮面が剥がれた。


村の小さな川でも、ダニは生息していたのだ。


山間の湿地で、夏の間に人を襲う。この発見は、全国に波及した。


「原因不明の風土病」が、次々とツツガムシ病と判明する。


香川の「馬宿病」、徳島や愛媛の「山の熱病」、宮崎、熊本の怪異――すべてが繋がった。


いもづる式に、祟りの影が病として炙り出されたのだ。


あの日、妖道と少年の出会いが、闇を切り裂いたのだ。しかし、妖道の心には、残る疑問があった。


信吉の恨みは、本当に消えたのか? 村の霧の中、赤い斑点が再び浮かぶ日が来るのではないか。


清彦は以後、瘡蓋を見るたび震え、妖道の言葉を思い出す。


「祟りは、病の仮面を被ることもある」


清彦の頭部には、暫く瘡蓋が残り、その間、妖道によって、いじめ尽くされたのは


言うまでもあるまい。



昭和二十六年。


佐々学が伊田を訪れたとき、彼の手に渡ったのは、


古びた紙片を綴じた一冊の手帳だった。


表紙には、震えるような筆跡でこう書かれていた。


「沢田文五 ほっぱん覚書」


その瞬間、祟りの闇は歴史へと姿を変えた。


一人の少年の記録が、国を揺るがす発見へとつながったのだ。


伊田の霧は晴れ、


祟りは静かに、物語の中へ帰っていった。


読んで頂き有り難う御座います。

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