(四十四 ) ガジュマルの下の友
酸味は目を覚まし、甘味は心を惑わす──シークヮーサーの怪。
1922年、大正11年の夏。
民俗学者の佐久間妖道は、未知の怪異を追い求めて、琉球の地に足を踏み入れていた。
妖道は、古代の伝承に魅せられた男だった。
琉球の島々には、異界の息吹が今も息づいていると信じ、村の古老たちから古い物語を蒐集する日々を送っていた。
しかし、古老たちの語りは、いつしか酒宴へと流れ込む。
妖道は宿舎に戻ることもなく、夜を徹して聞き取りを続けていた。
同行した助手の助川清彦は、そんな師の不在を幸いとしていた。
清彦は、禿げ上がった頭皮に悩む男で、琉球の温泉が毛を生やす効能を持つという噂を耳にしていた。
あちらこちらの湯を巡り、一日に何カ所も浸かる。湯から上がれば、頭皮に湯を塗り込み、マッサージを繰り返す。
熱い湯気が体を包み、汗が滴る中、清彦は執念深くその儀式を続けた。
しかし、過度な湯浴みが祟った。
清彦は湯あたりを起こし、倒れてしまった。そこは、巨大なガジュマルの木の下だった。
木は枝葉を傘のように広げ、濃い日陰を作っていた。
入り組んだ根が、ひんやりと心地よい枕となった。
体から余分な熱がゆっくりと吸い取られる感覚に、清彦は意識を失った。短い眠りだった。
やがて、小枝が風に揺れる音に混じって、幼い声が響いた。
「おい、おまえ、生きてるか?」
清彦が目を開けると、赤い髪の少年が顔を覗き込んでいた。
太陽に焼けた肌、白い歯が眩しく輝く。少年は笑いながら言った。
「よかった。オイラの家で、死に腐ってるのかと思った。」
清彦は体を起こし、謝った。
「ごめん、ちょっと温泉に入りすぎたみたいだ。」
少年はにやりと笑い、「だったら、口開けろ。」と言った。
清彦が素直に従うと、少年は青い小さな実を口の上に絞った。
果汁が滴り落ち、鋭い酸味が舌を刺した。
「すっぱい!」
清彦は飛び起きた。
「シークヮーサーだ。気つけになる。」
少年はさらにいくつか実を渡した。清彦はその酸味に癖になり、すべて平らげた。
次に少年がくれたのは、黄色く熟した実だった。
「甘くて、美味しい…」
皮ごと噛み砕き、すべて食べ尽くした。
「熟したシークヮーサーだ。大地の恵みだ。」
少年は満足げに頷いた。
清彦は自己紹介した。
「ありがとう。助かったよ。私は助川清彦。民俗学者だ。」
少年は答えた。
「オイラは、きじむなー。」
きじむなー。琉球の伝承に登場する木の精霊。
子供の姿をし、赤い髪を持ち、いたずら好きだが、友情を裏切られると恐ろしい報復をするという。
清彦はそれを思い浮かべたが、少年の無邪気な笑顔に、ただの子供のように感じた。
二人はすぐに友達になった。
夜になると、きじむなーは清彦の宿舎に現れた。手にはグルクンという魚の塩焼き。
「このグルクン、美味いね。もちもちして、力強い味だ。」
清彦が褒めると、きじむなーは得意げに言った。
「きじむなー、グルクン大好物。おまえも、きじむなーだ。」
二人は大笑いし、はしゃいだ。
朝になれば、ガジュマルの木の下の温泉に入る。そんな日々が、四日ほど続いた。
しかし、その夜。妖道がふらふらと宿舎に戻ってきた。
古老たちの宴は連日続き、豚肉ばかりの食事に体が悲鳴を上げていた。
「琉球の古老は酒を飲まないと話をしない。歓迎してくれているのは分かるが、連日続くと体が持たんよ。」
妖道はぼやきながら、目の前に置かれた魚の塩焼きに手を伸ばした。
それはきじむなーが清彦に持ってきたものだった。
「これはうまい。生き返るようだ。」
妖道は貪るようにかじりついた。清彦は慌てて止めた。
「先生、それはきじむなーのですよ!」
だが、妖道にはきじむなーの姿が見えなかった。妖道は怪訝な顔で清彦を見た。
「何を言ってるんだ、清彦君。きじむなーなど、ただの伝承だろう。」
その瞬間、きじむなーの声が響いた。
「きじむなーのグルクン食べた。おまえ、嫌いだー。」
声は妖道にも聞こえたらしい。妖道の顔が青ざめた。
次の瞬間、宿舎の灯りがすべて消え、漆黒の闇が訪れた。
風が止まり、虫の声さえ途絶えた。暗闇の中で、何かが蠢く気配がした。
木の根が這い寄るような、かすかな音。清彦は震え、きじむなーの名を呼んだが、返事はなかった。
それ以来、清彦はガジュマルの木に行っても、きじむなーに会うことはなかった。
少年の笑顔は、幻のように消え去った。
妖道はショックを受けたのか、その日から高熱を発し、数日寝込んだ。
清彦は看病しながら、シークヮーサーのことを思い出した。あの酸味が、妖道の熱を下げてくれるかもしれない。
ガジュマルの木の下へ行くと、根元に青く美しいシークヮーサーが五つ置かれていた。
誰が置いたのか? 清彦は震える手でそれを持ち帰り、妖道の口に絞り込んだ。
果汁が滴り、妖道の熱はみるみる下がった。
妖道は目を覚まし、感謝の言葉を口にした。
清彦が妖道にシークヮーサーを絞り、熱が下がっていくのを見届けた夜。
外では、風のない闇の中で、ガジュマルの葉がひとりでに揺れていた。
清彦はふと、窓の外に気配を感じた。
小さな影が、木の根の上に座っている。赤い髪が、月の光を受けて淡く揺れた。
きじむなーは、清彦をじっと見つめていた。
怒っているようにも、寂しがっているようにも見える。
やがて、影は小さく呟いた。
「…おまえは、きじむなーの友だちだったよ」
その声は、風に溶けるように消えた。
次の瞬間、影はガジュマルの根の隙間へすっと沈み、そのまま二度と姿を見せなかった。
翌朝、清彦が木の下へ行くと、
昨日の五つのシークヮーサーの代わりに、
ひとつだけ、熟れた黄金色の実が置かれていた。
甘い香りが漂う。
それは、別れの印なのか、赦しなのか、
あるいは“最後の友情”なのか、誰にも分からない。
清彦はその実を手に取り、
胸の奥に小さな痛みを抱えながら、島を去る準備を始めた。
ガジュマルの木は、何事もなかったかのように静かに枝を広げていた。
ただ、木陰を通るたび、どこかで子どもの笑い声がしたような気がした。
それが幻かどうかは、
清彦にも、もう確かめようがなかった。
読んで頂き有り難う御座います。




