(四十三 ) 八つの影
人の都合が生みし影――民俗学者と奇妙な助手が辿る封印された真実の旅
1922年、夏の盛りを過ぎた頃、民俗学者の佐久間妖道は、未知の怪異を求めて琉球の地に降り立った。
東京の喧騒を離れ、青い海と熱帯の空気に包まれた島々は、彼の好奇心を刺激した。
妖道はこれまで本土の山村や古い寺社を巡り、数々の怪異譚を収集してきたが、琉球の伝承は別格だった。
神話と現実が溶け合うような、底知れぬ深さがあった。
連日連夜の酒宴が、彼を疲弊させた。地元の漁師や古老たちが、泡盛を振る舞いながら口々に怪談を語る。
キジムナーやマジムン、果ては海の底から這い上がる幽霊の話。
妖道はノートを埋め尽くしたが、体はとうに、悲鳴を上げていた。
ある夜、酒宴の最中、限界を迎えた妖道は酔いを醒まそうと、夜風に当たっていた。
月明かりが海面を銀色に染め、波の音が静かに響く。
遠くで、誰かが低く歌う声が聞こえた。いや、歌ではない。
呟きか、それとも…海の喘ぎか。突然、海面が揺れた。
泡立ち、ゆっくりと人影が浮上する――女性だった。
黒髪が濡れて肩に張り付き、白い肌が月光に輝く。彼女は海中からまっすぐに歩いてくる。
足元は波に洗われ、砂浜に近づくにつれ、足音が聞こえ始めた。
妖道の背筋に、冷たいものが走った。
海から現れる女──それは琉球の伝承で、しばしば不吉な予兆だった。
女性は妖道の前に立ち、微笑んだ。目は深く、青みがかった瞳が、異邦人を思わせる。
「伝承の方は、大方集まりましたか?」
声は柔らかく、しかし海底から響くような低さがあった。
妖道は喉を鳴らした。好奇心が恐怖を抑え込んだ。
「はははっ。とてもとても。私は世間を知らなかったようです。本土と比べられないほどの数と密度があります。
おそらく、1年滞在しても集めきるのは無理でしょう。」
女性の唇が弧を描く。
「それに気付くとは、さすがは学者先生ですね。ここで、ただ夜風に当たってばかりでは時間が惜しいでしょう。
私がこの海人の成り立ちを、ひとつお話ししましょうか?」
妖道の目が光った。
「是非とも」
女性は海を背に、ゆっくりと語り始めた。
「昔、海の底に、根の国、というものがあって、そこから上がってきた海人がいた。
私たちとは目の色が違うばかりか、船の扱いから、潜水する技術に至るまで、すべてが秀でていて、
私たちはそれを学んだのです。」
「根の国? 海底の民ですかな?」
妖道はノートを広げ、ペンを走らせる。
女性は首を振った。
「いいえ。今のは、身も蓋もない話故、それっぽく、後々に書き換えたのでしょう。
同じ話が、違う語りでもう一つ残されています。この糸満の土地の話です。
琉球とは、あるときから、海人が二種類になりました。今から500年くらい前でしょうか、
イギリス人の船が座礁いたしました。私たち海人はなんとか彼らを救おうと海に飛び込みましたが、
結局助かったのは8人のみ。彼らはロンドン壕と呼ばれることになる洞窟で生活していましたが、
それでは不自由だろうと村の古老達が家をあたえたのです。
その時に彼らとの会話で、エイトマンという言葉が、何度も使われたので、この地の名前がイトマンとなりました。
その彼らと海人との子孫が私たち、もうひとつの海人なのです。」
妖道は息を呑んだ。
月明かりに照らされた女性の顔を、まじまじと見た。
彫りが深く、鼻筋が高く、瞳の青みが強い。確かに、イギリス人の血を思わせる。
だが、それだけではない。何か、歪んだものがそこにあった。
肌の質感が、まるで鱗のように光を反射する。唇の端が、不自然に裂けているように見える。
「なるほど、確かにイギリス人の彫りの深さがうかがえます。」
女性は笑った。笑いが、低く響く――海の底から泡立つような。
「学者先生、よく見ていますね。でも、それだけですか? もっと近くで、確かめてみては?」
妖道は後ずさりした。
女性の足元に、砂が湿っている。いや、水が滴っている。彼女の体は、まだ海水を湛えているようだ。
足の指の間が、膜のように繋がっている気がした。
伝承の海人──根の国から来た者たち。
500年前の船の生存者。だが、もしそれが本当なら…彼らは本当に「人間」だったのか?
女性の声が続く。
「あの船は、ただの座礁ではなかったのです。嵐に追われ、海底の裂け目から、何かが這い上がってきた。
イギリス人たちは、それを見てしまった――根の国の住人たちを。
助かった8人は、変わってしまった。海の呪いを受け、半人半魚の体に。海人たちは恐れながらも、彼らを匿った。
数百年の時の流れを持ってしても、その呪いは完全には浄化できず、僅かながら今もこうして代々受け継がれている。
夜になると、海を呼び、海底の声が聞こえるのです。」
妖道の心臓が激しく鼓動する。女性の目が、輝きを増す。
「私も、その一人。月夜に海から上がるのは、祖先の習慣。あなたのような旅人を、迎え入れるために。」
彼女の手が伸びる。指先が冷たく、ぬめりがある。妖道は逃げようとしたが、体が動かない。
酔いのせいか、それとも…彼女の声が、呪文のように絡みつく。
「もっと聞きたいですか? 根の国の本当の姿を。海底の宮殿、そこで待つ古き神々を。あなたも、仲間になりませんか?」
周囲の闇が濃くなった気がした――そしてそのまま妖道は闇に飲まれた。
翌朝、佐久間妖道は砂浜で目を覚ました。
衣服は乾いており、体に傷ひとつなかった。
ただ、胸の奥に、冷たい海水がまだ残っているような感覚だけがあった。
昨夜の出来事が夢だったのか、現実だったのか、妖道は震える手でノートを開いた。
そこには、確かに自分の筆跡で“エイトマンの伝承”が記されていた。
だが、その余白に、見覚えのない青い文字がひとつだけ書き込まれていた。
「また会いましょう、学者先生」
その文字は、乾いた紙の上で、まるで海水のようにじわりと滲んでいた。
妖道はノートを閉じ、深く息を吸った。海の匂いが、どこか甘く感じられた。
彼はその日、琉球を離れた。
だが、汽船に乗り込む直前、ふと振り返ると、遠くの波間に、昨夜の女が立っているように見えた。
微笑んでいる。
まるで、彼が持ち帰った“何か”を確かめるように。
妖道は目をそらし、船に乗った。その背中を、潮風が静かに撫でた。
それ以来、妖道は海の音を聞くたびに、胸の奥で、あの青い瞳がゆっくりと瞬くのを感じるのだった。
読んで頂き有り難う御座います。




