(四十二 ) 海辺の宴
人の都合が生みし影――民俗学者と奇妙な助手が辿る封印された真実の旅
1922年、民俗学者の佐久間妖道は、未知の怪異を追い求めて、琉球の地に足を踏み入れた。
伴うは弟子の助川清彦。頭頂部が見事に禿げ上がった男で、本人曰く、生まれ落ちた瞬間から毛髪とは無縁だったという。
妖道の探求心とは裏腹に、清彦はこの旅を心底喜んでいた。
なぜなら、琉球の秘湯が、自身の禿頭に効能をもたらすかもしれないからだ。
陽気にステップを踏みながら、彼は異邦の土を踏みしめた。
現地の民が案内した宿舎は、質素な民家だった。そこでは、古びた食器の山が、捨て去られる寸前だった。
清彦は、数日の滞在に過ぎないと、それらを元に戻させ、自身で使うことにした。
琉球は本土とは異なり、すべてが新鮮で、妖道にとっては宝の山。
伝承を収集すべく、彼は清彦を残して出かけていった。
「そうだ、清彦君。今夜、琉球の方々が我々を酒宴に招いてくれるそうだ。夕方には宿に戻っていてくれよ。」
「酒宴とは、楽しみですね。」
「君は女好きだから、何かやらかさないか心配だが、気を付けてくれたまえ。」
「もう、勝手なことを。先生こそ、伝承集めに熱中しすぎて遅れないように。」
そう言い残し、二人は別れた。
手持ち無沙汰の清彦は、浜辺へ足を運んだ。琉球の海は、息を呑むほど美しかった。
見たこともない深い青が、どこまでも広がる。ぼんやりと歩いていると、足元に蟹が現れた。
「君はいつも横にばかり歩くけど、疲れないのかい?
こうして真っすぐ進む方が楽だと思うけどな。どれ、僕も真似してみようか。」
清彦は蟹の歩みを模倣し、横歩きを試みたが、すぐに息を切らした。
「やっぱり辛いよ。もしかして、君は僕が見ていないところで、真っすぐ歩いているんじゃないのか?
きっと、人間をからかっているんだろう。」
そんな独り言を呟く清彦に、柔らかな声がかけられた。
「蟹とお話しだなんて、随分と面白いお方ですね。」
振り返ると、そこに美しい女が立っていた。琉球の伝統衣装を纏い、微笑みが妖しく輝く。
「ああ、恥ずかしい姿を見られてしまった。」
「どうぞ、酒宴の支度が整いました。こちらへ。」
促されるまま、清彦は彼女について行った。
夕闇が迫る浜辺から、賑やかな歌声と三線の調べが響いてくる。
灯りが揺らめき、人々が輪になって踊り、酒を酌み交わす。
清彦は自然とその輪に加わり、琉球の酒に酔い、歌に興じ、踊りに身を委ねた。
女たちの笑顔が、月明かりの下で幻想的に浮かぶ。時間は溶け、夜は深まった。
――しかし、朝の波音が清彦を目覚めさせた。
周囲はただの浜辺。宴の痕跡はどこにもない。
代わりに、自身の周りを囲むように、ひっくり返った椀、砂に埋もれたお玉、割れた徳利…古びた道具が散乱していた。
それらは、清彦に見覚えがあった。
宿舎で捨て去られようとしていた、あの品々だ。呆然とする清彦を、妖道が見つけた。
酒宴に現れなかったことを叱る妖道に、清彦は昨夜の出来事を語った。
二人は村のユタ(巫女)に相談した。
「それは、海のカミたちの宴に招かれたのだ。あの道具たちは、彼らの仮の姿さ。
人間の目には、古い物に見えるが、夜になると…命を宿す。」
ユタの言葉が、静かに響いた。
清彦は震えた。宿舎に戻ると、食器棚は空っぽだった。
あの夜、道具たちは浜辺で踊っていたのだ。
清彦は、海の底から聞こえる三線の音に耳を澄ませた。
それは、昨夜の宴の旋律と同じだった。
けれど、どこか遠く、深く、冷たい。
「…先生。あの道具たちは、僕を呼んでいたのでしょうか」
妖道は答えなかった。
ただ、清彦の肩に手を置き、海を見つめた。
波が寄せては返すたび、砂の上の器たちは、
まるで誰かに抱えられるように、少しずつ海へと近づいていく。
ひとつ、またひとつ。
椀も、お玉も、徳利も、静かに海へ吸い込まれていった。
「戻っていく…」
清彦が呟くと、妖道は低く言った。
「清彦君。あれは“宴の客”ではなく、君を迎えに来た者たちだったのかもしれないよ」
その言葉に、清彦は息を呑んだ。
最後のひとつ、欠けた茶碗が波にさらわれる瞬間、
海の底から、確かに誰かの笑い声がした。
それは、昨夜、彼の手を取って踊った女の声に似ていた。
清彦は思わず一歩、海へ踏み出した。
だが妖道が腕を掴み、強く引き戻す。
「行ってはならん。あれは“人の宴”ではない」
波が静まり返ると、もう何も残っていなかった。
ただ、海の青さだけが、どこまでも深く広がっていた。
その日から清彦は、夜になると、海の方角をじっと見つめる癖がついた。
まるで、誰かが再び迎えに来るのを待つように。
読んで頂き有り難う御座います。




