(四十 ) 認知の罠に棲むもの
人の都合が生みし影――民俗学者と奇妙な助手が辿る封印された真実の旅
1911年(明治44年)の夏、陽光が容赦なく照りつける朝、
民俗学者の佐久間妖道の部屋に、助手の助川清彦が息を切らして飛び込んできた。
一枚のチラシを握りしめた手が震え、興奮で禿げ上がった頭皮が赤く染まっていた。
「先生! すごい掘り出し物の物件を見つけましたよ!」
妖道は机に向かったまま、興味なさげに手を振った。
「旅が主体の僕らが土地を手に入れてどうするんだい。」
「今は良いですよ。でも、動けなくなったらどうするんですか?」
清彦は詰め寄り、チラシを妖道の前に差し出した。チラシには、こう記されていた。
【売家】
相模国鎌倉郡七里ヶ浜
海望む別荘地 三百坪
母屋・離れ・物置付
水道良好 日当り佳
一部事情ありのため
急々廉価にて放出
金二千五百円
風間理一
妖道の目が、わずかに光った。
「はっはっ。君は本当に引きが良いよねぇ。」
「そうなんですよ。そんな物件、ないですよ。」
「では、虎口に飛び込んでみようかねぇ。」
「何なんですか、その物騒な物言いは…」
清彦は頰を膨らませて妖道を睨んだ。
「私は用事があるから、君が買い付けてくれたまえ。5日後には行くと思うが、それまで住み心地を堪能しておくれよ。」
「本当に、よろしいので?」
清彦は妖道の許可を得ると、飛び跳ねるように部屋を出て行った。
五日後のこと――
妖道が七里ヶ浜の物件に到着すると、玄関先で清彦がうなだれて座り込んでいた。
妖道の姿を見つけると、清彦は飛びついてきた。
「先生! この家はダメです、お化けが出ます!」
「だろうねぇ。」
そのあっけない返答に、清彦は声を荒げた。
「また、僕をおとりにしましたねぇー!」
「いやいや。欲しいと言ったのは君だよ。」
妖道は穏やかに言って、続けた。
「私には恐らく、お化けとやらは見えない。だから、私が来るまでの間にあったことを、
家の中を案内しながら教えてくれ給え。」
二人は朽ちかけた門をくぐり、埃っぽい廊下を進んだ。
屋敷は江戸末期に建てられたものらしく、陽の光さえも薄暗く感じられるほど、古びた空気が漂っていた。
清彦の話は、不動産屋との出会いから始まった。
「ここに連れられてきて、金二千五百円の物件をいきなり五百円まけて、金二千円にしてくれたんです。」
妖道は頷いた。
「ははは。さっそくきたか。アンカリングだよ。心の基準だった二千五百円から五百円まけてもらったことで、
安い! と感じてしまったのだ。その家の価値を君が決めたのではなく、そう思わされたのだよ。」
清彦は続けた。
「それで、朽ちかけた屋敷を見たら、二千円の価値もないのでは? と思ったのですが、もう契約してますから、
損はないはずだと自分に言い聞かせました。」
「それはサンクコストの落とし穴だよ。支払ってしまった以上、後には引けない。
だから、自分は損をしていない。そう思い込もうとするのさ。」
さらに奥へ進むと、清彦は奇妙な部屋を指さした。
中央に三つの扉が並び、壁に古い文字が刻まれている。
「一つの扉を選べ。正しき者は救われ、誤る者の闇は濃くなり、次第に現実となる」
清彦は思い出すように語った。
「三択のゲームだと思いました。私は左を選びました。そうしたら、どこからか声が響きました。
《今、右の扉を開けよう。そこには何も無い。君は左の扉を選び続けるか、それとも扉を変えるかい?》と。
私は、どちらにしろ最初と確率は変わらないと思い、直感に従って左のままにしました。」
妖道は静かに口にした。
「それは、モンティホール問題だ。最初は三分の一の確率だが、ハズレの扉を一つ教わった後の確率は二分の一になる。
つまり、選び直した方が当たる確率は高い。」
清彦は左の扉を開けて中に入ったが、中は空っぽだった。
「その夜から異変は始まりました。家中の影が濃くなり、私の周りを徘徊しはじめたのです。
翌日、再びあの部屋に行くと、扉はリセットされていました。今度は真ん中の扉を選びました。
《左を開けよう。何もない。変えるか?》と聞こえました。私はそのままにしました。開けるとまた空の部屋。
そして、影が増えて、夜中に囁き声が聞こえるようになりました。
私は、変えずにいればかならず次は当たると思いました。」
「ギャンブラーの誤謬だ。連続した失敗が、次回の成功を約束するわけではないのに、君はそう信じ始めたんだ。」
清彦の声が震えた。
「私は、ここで五度、失敗を繰り返しました。そして気付いたのです、
この影の出現は自分の選択が原因ではないのかもしれないと。」
「取り違えられた因果関係というやつだ。扉を間違えたから影が増したのではなく、
最初から影は家に潜んでいたのかも知れない。」
「そして、私は何が何なのか分からなくなってしまい、玄関に座り込んでいたのです…。」
妖道は清彦に近づき、囁くように言った。
「信濃国木曽郡の外れにあった村のこと、思い出さないかい? では、今回の物件の売主である風間理一の名前は?」
清彦の目が輝いた。
「あぁ、あの算術で怪異を閉じ込めた学者ですね!」
「いや、算術ではない。認知の罠だ。恐らく彼は考えたのだろう。認知の罠に陥るそのメカニズムに、
怪異を生む流れがあると。そして、君はそれにまんまとハマり、怪異を自分の中につくりだしたのだ。」
清彦は愕然とした。
「先生! 知ってらしたのですね。」
「まぁね。売主の名前を見て、すぐに思い出したよ。
たしかに『一部事情ありのため 急々廉価にて放出』というだけのことはある。それで、まだ君はこの物件ほしいのかい?」
清彦は激しく首を振った。
「先生はいじわるですよ! いりませんよ。キャンセルして下さい!」
屋敷の奥から、かすかな影のざわめきが聞こえた。
妖道は微笑んだが、清彦の背筋には、冷たい闇が這い上がっていた。
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