(三十九 ) アマビエのいない村
幻を信じるとき、人は救われる。
弘化3年、1846年。肥後国の辺鄙な漁村に、マサメという少女がいた。
海の荒波が絶え間なく打ち寄せるその村で、彼女は十歳の身ながら、村一番のほら吹きとして知られ渡っていた。
幼い頃から嘘を吐くのが癖で、はじめは子供たちをからかい、大人たちを欺くのが楽しかった。
だが、嘘は積もり積もって、彼女の周りを空虚な霧のように覆い尽くした。
誰も彼女の言葉を信じなくなり、村人たちはマサメを見かければ顔を背け、嘲りの視線を投げかけるだけだった。
マサメ自身、それが己の運命だとわかっていた。
嘘でしか人とのつながりを築けなくなっていたのだ。
孤独が胸を締めつける日々の中で、彼女は浜辺を彷徨うようになった。
潮風が肌を刺し、波の音が耳に響く中、ある日、奇妙な発見をした。
打ち上げられた魚――いや、魚とも呼べぬ異形のもの。長い髪が波間に揺れ、体は光る鱗に覆われていた。
死んだのか、ただ気絶しているのか、その目は虚ろに開かれ、静かに息づいていた。
ここで、マサメの悪癖が再び顔を覗かせた。
彼女は棒を拾い上げ、その異形の体に容赦なく突き刺した。
血が染み出し、鱗が剥がれ落ちる音が、波のざわめきに混じった。
次に、岩礁にそれを突き立て、口に枝を二本刺して、鳥のようなクチバシをでっち上げた。
夕陽が沈む頃、彼女は村に戻り、息を切らして叫んだ。
「あの神様が、私に言ったの。『豊作が続くが、疫病も流行する。私の姿を描いて人々に見せよ』って。
神々しく輝いていて、私にそう告げたの!」
村人たちは半信半疑だったが、神社の宮司がその話を聞きつけ、マサメが目撃した場所に向かうと
夕陽に照らされた神々しい姿の神仏がそこにあった。
長い髪、鳥のようなクチバシ、体は鱗に覆われ、足は三本。宮司の絵は完成するやいなや、その神仏は波にさらわれ、
海中へ姿を消したという。
宮司がマサメに問うた。
「あの神仏は何者か?」と。
彼女は即座に答えた。
「アマビエよ」
それ以来、マサメはアマビエの巫女として祀られ、村の信仰の中心となった。
だが、嘘はいつか露見する。
予言された豊作も疫病も訪れず、村人たちの疑念が膨れ上がった。
マサメは巫女の務めとして、命を捧げることになった。
自ら海へ身を投げ、アマビエの元へ――でっち上げの神の元へ――向かったのだ。
彼女の死体は見つからず、ただ浜辺に残された血痕が、潮に洗われ消えた。
大正10年、1921年。初夏の陽光が差し込む頃、民俗学者の佐久間妖道は、
スペイン風邪の終息を機に、各地でアマビエの伝承を探し始めた。
この未曾有の疫病に、アマビエの予言がなかったことが不思議でならなかった。
助手である助川清彦を伴い、唯一の伝承が残る肥後国へ向かった。
清彦は道中、興奮を隠せなかった。
「先生、僕の頭皮はもうボロボロですよ。今回は本気でハゲ温泉を探しますからね!」
妖道は苦笑した。
「うん、調査が終わってからだよ。それなら構わない。」
「先生、本当ですよ。僕を置いていったり、おとりにしたりするのはなしですよ。」
「大丈夫だ。今回は危険なことなどない。それに、君をおとりにしたことなど一度もないよ。
君が勝手に別行動を取ってるだけさ。」
清彦は何か思い当たる節があったのか、口を閉ざした。
マサメ神社に到着した二人は、本殿へ通された。
そこに祀られるアマビエの絵は、薄暗い灯りに照らされ、異様な光を放っていた。
長い髪が絡みつくように描かれ、クチバシが鋭く突き出し、鱗が不気味に輝く。
宮司にスペイン風邪の兆しを尋ねる妖道に、宮司は首を振った。
「兆しすらありませんでした」
妖道はさらに問うた。
「この神社の名、マサメとは何に由来するのですか?」
宮司の声は荘厳だった。
「アマビエの巫女様の尊い御名でございます。唯一、アマビエ様の言葉を正確に伝えてくださった方です。
その命を捧げ、我らと神との架け橋となられました」
妖道は首を傾げた。
「それでも、今回の疫病に兆しがないとは…不可解だ」
その夜、清彦は奇妙な夢を見た。
額に鱗が生えた自分が、暗い浜辺に立っている。波の音が耳を劈く中、声が響いた。
「額に鱗を持つ、我が眷属よ」
清彦は慌てて額を撫でた。
「鱗? そんなのいらない! 髪をくださいよ、神様!」
声は低く笑った。
「もう一枚、生えておろうが」
額に触れると、確かに冷たい鱗が感じられた。
「神様、鱗はいりません。髪を、バサバサに生やしてください!」
「待て。私はマサメじゃ。少し話を聞いてくれ」
清彦は頷いた。
「わかりました。だから髪を…」
マサメの霊は語り始めた。
「私はこの漁村の娘だった。嘘ばかり吐いて、村人から相手にされなくなった。
それで、神をでっち上げ、嘘の予言をしたのさ。だが、それが起こらず、私は巫女として命を捧げた。
でも、神なんて最初からいない。私は自分の嘘に呪われて、一生このまま…。なんとかしてくれないか?」
清彦は汗だくで目を覚ました。
夢の記憶が鮮やかで、額に触れると、かすかな疼きを感じた。
翌朝、妖道にその話を聞かせると、彼は即座に決断した。
宮司と相談し、アマビエの絵を本殿の炎にくべた。絵は燃え上がり、黒煙が渦を巻き、異様な叫びのような音を立てた。
炎の中で、長い髪が捩れ、クチバシが溶け、鱗が剥がれ落ちる。
煙が消えた後、静寂が訪れた。清彦の髪は生えなかった。
だが、マサメの霊は解放されたと信じたい。
疫病の時代に、アマビエは現れなかった。
それは、最初から幻だったからだ。
だが、人々はそんな幻にすがり、生き抜く力を得る。
民俗学とは、そんな人間の心を探る学問なのかもしれない。
読んで頂き有り難う御座います。




