(三十八) 青に染まった葵
青は狂気ではない。境の色だ
1898年の夏。
紀伊国巌出――山の岩肌が陽に白く光り、紀の川の水音だけが遠くで揺れている。
その巌出御殿から、封蝋の重みを帯びた一通の手紙が、民俗学者・佐久間妖道のもとへ届けられた。
差出人は、徳川茂承侯爵。
封の裏には、紀州徳川家の三つ葉葵が、かすかに金泥で浮かんでいる。
その様式から、これは“家の名においての召喚”と悟った妖道は、急ぎ巌出御殿へと向かうことにした。
出迎えたのは、徳川茂承侯爵その人だった。
東京の本邸ではなく、この紀州の奥座敷で会うということは、話が「外に出せぬ」ものである証左に他ならない。
人払いが済むと、茂承は妖道を奥の間へと導いた。
襖を開けた瞬間、妖道の呼吸が一瞬止まった。部屋全体が、青に塗り潰されていた。
天井も、柱も、畳の縁も、すべて。
ただし単なる青ではない。
深い水底を思わせる濃紺と、病んだ月光のような青白さが、何重にも重ねられ、渦をなし、流れ、絡みついている。
まるで部屋そのものが、生きて渦巻く大河のうねりになったようだ。
妖道は思わず呟いた。
「…うつくしい」
その声に、茂承侯爵が低い声で返す。
「恐ろしくはないか? 気が狂った乱心者の仕業だと思わぬか?」
妖道は首を横に振った。
「そのような者に、これほどまでの筆は持てませぬ。これは…狂気ではなく、もっと深いところから来たものだ」
茂承は目を伏せ、しばらく沈黙した後、静かに語り出した。
「三男の頼方が、書き置きを残して姿を消した。あれから二月あまり。手掛かりは、この部屋だけだ」
妖道は再び室内を見回した。
青い奔流のなか、かすかに人の形をした空白が浮かんでいることに気づく。
否、空白ではない。
そこだけ、筆が触れなかったように、元の白い壁が覗いている。
だがその白さは、決して「残された」ものではなく、妖道には、まるでこれを描いたモノのが己の自我として
あえてそこにう残した空白だとみえた。
「頼方は絵を描くのが好きだった。だが最近は、妙なものばかり描くようになっていた。
夜中、誰とも話さず、ただ筆を走らせていたそうだ。」
茂承の声がわずかに震えた。
「最後に残したのは、この部屋だ。そして書き置きには、こうあった」
侯爵は懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、乱れた筆跡で一行だけ。
『私の居場所はここじゃない』
妖道は紙を受け取り、じっと見つめた。
「連れ帰ることは難しいでしょう。」
妖道は静かに言った。
「だが、学びはどこででもできる。
私は怪異・伝承を追う者ゆえ、旅の果てで必ず出会うでしょう。
そのときが来たら、私が師となって導きます」
茂承は深く頭を下げた。
「妖道先生…息子を、頼む」
その夜、妖道は御殿を後にした。
紀の川の流れは闇に沈み、
ただ水面だけが、頼方の残した青のようにかすかに揺れている。
妖道はしばらく立ち止まり、御殿の奥――あの青の間を思い返した。
あれは狂気ではない。迷いでもない。境に触れた者だけが描ける“兆し”だ。
「…あの子は、まだ戻らぬだろう」
静かに呟くと、妖道は旅装の紐を結び直した。
探す旅ではない。待つ旅でもない。
“出会うための修行”の旅だ。
「いずれ、あの青の先で会うことになる」
夜風がそっと吹き、妖道の外套を揺らした。
彼はゆっくりと歩き出した。
その背に、巌出の山々が静かに息をしている。
こうして妖道の修行は始まったのだった。
読んで頂き有り難う御座います。




