(三十七 ) ツチノコ
見た者は、知らぬ間に伝説の片棒を担ぐ
明治四十三年、夏の盛り。
信濃の山深き里、霧に包まれた小さな村落で、佐久間妖道は古い土蔵の前に立っていた。
空は鉛色に沈み、遠くの山々がぼんやりと霞んでいる。
妖道は五十を過ぎた民俗学者で、鍛えられた体躯に黒い羽織を纏い、鋭い眼差しで周囲を睨み据えていた。
彼の傍らにいるのは、助手の助川清彦。
清彦は三十半ばの男で、頭頂部が禿げ上がり、陽光の下でつるつると光るその頭を、しきりに手で撫で回している。
「先生、この村の湯治場は効能抜群だそうですよ。特に、頭皮に良いと評判で…」
清彦の言葉を、妖道は無視した。
彼の関心は、そんな俗事ではない。ツチノコ――古来より語り継がれる奇怪な生き物だ。
妖道は長年、民間伝承を追い求めてきたが、このツチノコほど謎めいた存在はない。
摂津国で1712年、江戸で1779年、信濃で1834年…目撃談は古くから途切れることなく、各地に散見される。
だが、標本は何一つ残されていない。ただの幻か、はたまた人々の妄想か。
驚くべきは、縄文時代の土器にその形状が刻まれていることだ。
信濃の遺跡から出土した土器の文様は、太く短い胴体、鎌首をもたげた頭部をありありと描いている。
あれはただの装飾ではない。古代人が見た、何か実在するものの記憶だと…妖道はそう信じていた。
そして、この村――信濃の極めて近い場所で、近年、ツチノコの目撃例が複数寄せられている。
村人たちは囁き合う。
「山の斜面で、太い蛇のようなものが転がるのを見た」
「腹が膨らんで、槌のように見えた」と。
二人は村の長老から話を聞いた。長老は震える声で語った。
「あれは山の精だ。触れれば呪われる。決して追うな」
妖道は食い入るように聞いた。呪いとは、何かいにしえからの伝言だと――
しかし、彼の仮説は明瞭だ。
ツチノコとは、生物の名ではない。蛇が獲物を飲み込んだ後の姿を指すのだ。
蛇は食後に腹を膨らませ、消化のため動きが緩慢になる。山の斜面で休む蛇は、天敵に襲われやすい。
そこで、斜面を転がるように逃げる。その異様な形状と動きが、人々の目に「ツチノコ」として映る。
槌のような胴体、素早い転がり…すべて説明がつく。妖道はそう結論づけていた。
「先生、湯治場の湯は熱くなくて、肌に優しいそうです。禿げにも効くかも…」
清彦の言葉がまた耳に届く。妖道は苛立った。この助手はハゲ温泉のことばかりで集中力が欠如している。
頭の禿げを気にしすぎるあまり、調査の最中も温泉の話ばかり。
だが、妖道は我慢した。この一見して役にも立たない助手の行動が大きな発見に結びついたことが幾度もあるのだ。
夕暮れ時、二人は山道を登った。村人たちの目撃談が集中する斜面を目指して。
木々が密集し、陽光が差し込まぬ森は、湿った空気に満ちている。
足元は苔むした岩と落ち葉。妖道は杖を突き、清彦は荷物を背負ってついてくる。
空気が重く、虫の鳴き声すら途切れがちだ。
「先生、この辺りは湿気が多いですね。湯治場も近いのかな…」
「清彦君、今は集中したまえ」
妖道の声が低く響く。
やがて、斜面の途中で足を止めた。そこは急な傾斜で、岩が転がり落ちやすい場所。
目撃談の多くが、ここで見たという――妖道は周囲を観察した。蛇の痕跡を探す。だが、何もない。
ただの静寂が森を包み、やがて夜が訪れた。
二人は小さな天幕を張り、焚き火を囲む。妖道は古い書物を広げ、ツチノコの記述を読み返す。
1712年の摂津の記録は、「槌のごとき蛇、転がりて逃ぐ」とある。
1779年の江戸では、「腹膨らみ、目赤く輝く」と。
信濃の1834年は、より詳細だ。
「山中にて、短躯の怪物を目撃。転がり落ち、消え失せり」
縄文の土器も、これらと一致する。妖道の胸に、確信が湧く。これは幻ではない。
自然現象の産物だ。清彦は火を眺めながら、ぼんやりと呟く。
「先生、ツチノコなんて、本当にいるんですか? ただの蛇の間違いじゃないかと…」
妖道は説明を始めた。蛇の消化過程、腹の膨張、逃避行動…すべて理屈に合う。
清彦は頷きながらも、頭を撫でる手が止まらない。
「へえ、そうなんですか。このツチノコの里の、湯治場の湯で頭皮を洗ったら、髪が生えるかも…」
妖道は溜息をついた。助手は相変わらずだ。夜が深まるにつれ、森の気配が変わる。
風が木々を揺らし、遠くで獣の咆哮が聞こえる。妖道は眠れぬ夜を過ごした。
夢うつつに、土器の文様が浮かぶ。太い胴体が、斜面を転がり続ける幻を見た。
翌朝、清彦が先に起きた。彼は天幕を抜け出し、近くの小川で顔を洗う。
頭を気にし、湯治場のことを思う。村の湯は本当に効くのか。調査など、どうでもいい。
だが、妖道の好奇心を満たさねば温泉には入れない。仕方なく、斜面を散策する。
そこで、清彦は見た。岩陰に、太く短い影。長さは一尺ほど。腹が膨らみ、槌のような形。
頭部は鎌首をもたげ、赤い目が輝く。ツチノコだ――本物だ。
清彦は息を呑んだ。生き物はゆっくりと動く。消化中か、動きは緩慢だ。清彦は近づく。手が震える。
妖道に報告すべきか。だが、ふと考える。あの先生は、これを捕らえ、解剖し、論文にするだろう。
文明の光にさらす。だが、この生き物は、そんなものに値しない。
古来の影、縄文の記憶。わざわざ、文明にさらすことはない。
そう考えた、人間の心によって、今まで存在を曖昧にされていたのかもしれない。
長い長い年月をかけたその隠匿の行為を、どうして自分などが破って良いものか。
清彦はそっと手を引いた。
ツチノコは斜面を転がり、消えた。清彦は頭を撫で、微笑んだ。湯治場の湯が、待っている。
妖道が起きた時、清彦は何事もなかったように振る舞った。
「先生、何も見つかりませんでしたよ。蛇の間違いでしょう」
妖道は疑わなかった。そうして二人は村を後にした。
だが、清彦の心に、影が残った。あの赤い目が、夜毎に夢に現れる。
ツチノコは、ただの蛇ではない。古い呪いだ。信濃の山は、静かにそれを守っている。
数日後、妖道は論文を執筆した。
ツチノコは幻だと。だが、清彦は知っている。本物はいる。そして、それは文明から隠されるべきだ。
やがて、清彦の頭に、ほんのりと髪が生え始めた。湯治場の効能か。それとも、あの生き物の贈り物か。
清彦は鏡を見て、震えた。髪の間から、赤い目が覗く気がしたのだ。
森の奥で、ツチノコは転がる。永遠の影として。
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