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(三十五 ) 深淵の瞳

人は怪異よりも、人に狂わされる。 明治神田、静かに崩れる心の物語。


明治四十二年、夏の盛り。


蒸し暑い神田の路地裏、煤けた宿舎の狭い一室で、民俗学者の佐久間妖道は黙々と筆を走らせていた。


春に調査した「コトリバコ」の記録をまとめ上げるためだ。


あの古老の生きた記憶たる、生々しい記録を後生に、単純に呪いとしてではなく、事実として残すためだ。


妖道の指先は、インクの染みのように黒く汚れ、部屋には古い書物の匂いが立ち込めていた。


そんな師の傍らで、助手である助川清彦は、いつものように浮ついた心を抱えていた。


女癖の悪い男で、妖道の仕事が一段落つくや否や、文芸サロンのような場所へ足を運ぶのが常だった。


当時、銀座の資生堂パーラーは、カフェの前身として文化人たちの溜まり場となっていた。


画家や小説家が集う、知識の泉のような店。


清彦にとって、そこはまさにオアシスだった。


女給との会話が主ではないが、美しい女性たちがいる。それが彼を引きつけた。


店には、二枚看板の女給がいた。紅子と百合江だ。


紅子はおかっぱ頭に頰をほんのり赤らめた、元気な娘。一方、百合江は色白の肌に長い黒髪をなびかせ、


穏やかで静かな魅力を湛えていた。


彼女の瞳は、深淵のように暗く、吸い込まれるような不思議な輝きを放っていた。


画家たちはこぞって百合江に声をかけ、モデルになってくれと懇願した。


しかし、誰一人としてその願いが叶った者はいなかった。彼女はいつも、微笑みながら静かに拒絶するのだ。


清彦は足繁く店に通うようになった。目当ては、もちろん百合江。


君の入れるコーヒーは美味いね――それが彼の精一杯の口説き文句だった。


朝から晩までコーヒーを飲み続け、腹が膨れるほどに。


百合江はそんな清彦を、ただのコーヒー好きのおじさん程度にしか思っていなかった。


だが、他の男たちが彼女を絵の題材にしたり小説の主人公にしようと迫る中、


清彦の純粋な言葉は、逆に好印象を与えていた。彼女にとって、彼は異彩を放つ存在だったのだ。


やがて、店の外で百合江につきまとう男が現れた。画家、斎木赫堂。


着流し姿の彼は、百合江の後を追う影のように執拗だった。


百合江は何気なく清彦に相談し、自宅まで送ってほしいと頼んだ。清彦に断る理由などない。


連日、彼女の部屋でコーヒーを一杯飲んで帰る日々が続いた。


十日ほど経ったある日、資生堂パーラーで赫堂と出くわした。


彼は清彦を一瞥もせず、百合江に目を据えた。


「これが君の答えかい。随分とむごい真似をするな」


百合江の声は震えていた。


「わたし、言ったじゃないですか! モデルに興味はないと」


赫堂の顔が歪んだ。


「だからと言って、このハゲか? 私に当てつけての、このハゲか?」


激昂した赫堂の言葉に、清彦は戸惑った。


だが、ふと冷静に周囲を見回す。赫堂の着流しの帯に、脇差しがコイクチを切った状態で差されている。


間合いが居合い術の間だ。


清彦は何となく不安を覚え、百合江の前に割って入ると、赫堂は鞘に左手を滑らせた。


抜刀の気配。


刹那、清彦は左足で蹴り、間を詰めた。右手で相手の柄頭を抑える。


しかし、赫堂は前が詰まったと見るや、鞘を後ろに走らせ、抜刀した。


露わとなった白刃が、清彦の首筋に迫る。


清彦は咄嗟に体を折り、赫堂の両膝に飛びついた。


赫堂はもんどり打って倒れ、清彦が押さえ込もうとしたその瞬間――右目に激痛が走った。


赫堂の口に含まれた針が、吐き出されたのだ。血が噴き、視界が赤く染まる。


赫堂はそのまま逃げ去った。


清彦は百合江に連れられ、近場の病院へ。針を抜く処置を受け、眼球の動きを抑えるため、両目を包帯で覆われた。


失明は免れたが、痛みは残った。


妖道は清彦を叱責した。


「君は竹刀剣術しか身につけておらんだろう。もし相手が、今回のような多才な技の持ち主ではなく、


殺意だけの技を身につけていたら、君は死んでいたよ。何事も中途半端が一番危ない。


怪異も、中途半端な知識で近づくから災いに遭う。


その男の抱える事情を知っていれば、君も対応が違ったのではないか?」


妖道の言葉が、清彦の心に刺さった。


赫堂の事情…。清彦は思い出した。赫堂が必死に百合江に思いを寄せる姿を――


百合江の瞳の深淵が、ふと脳裏に浮かぶ。あの静かな魅力は、人を狂わす呪いの産物ではなかったか。


包帯の下で、清彦の心は静かに削られていった。


この身を投げ出して守ったというのに、なぜ百合江は傍にいないのか。


彼女の部屋で飲んだコーヒーの味が、鼻を突くような苦みに変わる。


夜毎、包帯を濡らす涙は、涙なのか、それとも呪いの雫か――。


神田の路地裏で、妖道の部屋から漏れるランプの光が、揺らぐ影を長く伸ばす。


コトリバコの記録の完成には、あともう少し時間がかかりそうだ。


読んで頂き有り難う御座います。

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