(三十四 ) 出歯龜ノ怪
――欲望は、歯形となって残る。
明治41年、晩春の頃。
東京府豊多摩郡大久保村の辺りは、桜の散り際の薄暮に包まれ、街路には微かな霧が立ち込めていた。
民俗学者の佐久間妖道は、久方ぶりに旅の労を忘れ、助手の助川清彦を伴って東京の町を彷徨っていた。
妖道の名は、妖怪の道を意味するかの如く、世の怪異を追い求める男であったが、
この日はただ、村はずれの団子屋に心奪われていた。
その店は、路地裏の古びた軒先にあり、みたらし団子の黄金色のタレが、甘く塩辛く舌を絡め取り、
草団子の蓬の香りが鼻腔をくすぐる。妖道はしばしば呟いた。
「この塩梅こそ、まさに怪異なり。甘さが一瞬にして香りを消し去る…人間の欲望の如く、儚くも恐ろしきものよ」
二人は連日通い詰め、その日も腹一杯に団子と玉露を味わい、笑顔で店を後にした。
路地を三百メートルほど進んだところで、清彦が俄かに尿意を催した。
辺りは人気もなく、彼は銭湯「藤の湯」の壁に向かって用を足した。
だが、たちまち店の主人が飛び出し、清彦を捕らえた。
清彦は立ち小便を咎められたと思い、
「すみません、我慢できなかったもので…」と頭を下げたが、
「人を殺しておいて、謝って済むわけがないだろう!」主人の声は、鬼の咆哮の如く響いた。
主人は容赦なく彼の頭を叩きつけた。
「頭はやめて! 頭だけは!」清彦の悲鳴が、薄闇に溶け込んだ。
駆けつけた妖道は、穏やかに名乗り出た。
「私は民俗学者の佐久間妖道と申します。私の連れが何か致しましたか?」
主人は目を血走らせ、「こいつは人殺しだ! お前も仲間か?」と詰め寄った。
やがて警察が現れ、妖道は事情を説明した。
「私と団子を食っておったばかりで、別れて五分ほど。この男は女好きではあるが、
人を殺すような真似はせぬ。私が保証する」
警察は冷徹に告げた。
「本人が罪を認め謝罪しておるようなので、一度駐在でお預かりする」
清彦は泣き叫んだ。
「それは立ち小便を謝っただけだ! 先生、助けてぇー」
妖道は静かに諭した。
「すぐに釈放される。言う通りにせよ」
事件の舞台は「藤の湯」の女湯。
被害者は郵便局員の下田まさこ、二十七歳の女性。
死因は、濡れた手ぬぐいを口に押し込まれた窒息死。湯気の立ち込める湯殿で、彼女は一人、息絶えていた。
妖道が近所の客に聞き込むと、女湯が頻繁に覗かれていたという。
犯人は、禿げ上がった頭と出っ歯の男。
証拠は、塀に残された歯形――覗きながら、興奮の余りかじりついたらしい、無数の咬み跡。
妖道は思った。あの歯形は、まるで獣のもの。人間の業があふれだした証しだ。
自らの欲望を抑えられなくなった犯人はすぐに捕まった。
植木職人の前田亀吉。見事な出っ歯と禿頭から、同僚に「出歯龜」とあだ名された男だ。
彼は覗きを認めたが、殺人は否認した。
「覗いただけだ。殺してなどいない」
一方、清彦は駐在所に留め置かれ、日数は十日を超えた。妖道は毎日団子を差し入れ、清彦の怯えた顔を眺めた。
「先生、俺の頭を叩いた主人の手…何か、呪いのような気がする。毎晩髪が抜けるんです。」
清彦の呟きは、夜の闇を深めた。
やがて亀吉が口を割った。仕事帰りに酒を飲み、覗き癖が疼き、銭湯へ。
まさこ一人を見つけ、押し入ろうとしたが、禿頭と出っ歯を嘲笑された。
カッとなり、手ぬぐいを奪い、口に詰めて気絶させた。そのまま逃げ、後に死を知ったが、自首できなかった…。
公判で亀吉は「自白は強要された」と主張し、否認に転じた。
無期徒刑の判決を受け、控訴したが、十三年の服役を強いられた。
出所後、彼は各地を巡り、公演した。
「俺は無実だ。同じ禿頭の男の代わりに、謝って捕まったんだ」
だが、しばらくして、再び覗きで逮捕された。
塀に残る歯形は、永遠の呪いのように、彼の運命を繰り返す。
妖道は清彦に語った。
「人間の欲望は、怪異の源。覗き鬼は、決して消えぬ」
大久保村の路地は、今も薄霧に包まれ、歯形の影が忍び寄る。
読んで頂き有り難う御座います。




