(三十三 ) 直感の裂け目
数式が乱れたとき、怪異は姿を現す。
1902年、明治35年の秋。
信濃国木曽郡の外れ、深い山々に抱かれた小さな村から、妖道のもとに一通の急報が届いた。
村の古老が語るには、十年前にこの地で起きた怪異の話だった。
風間理一という学者が、屋敷に潜む何かを捕らえ、それ以来、外界から姿を消したという。
崖崩れで屋敷の裏手が崩壊し、立ち退きを迫る村人たちが中に入ったところ、屋敷は空き家同然。
だが、裏に通じる扉の前に据えられた鏡が、まるで生き物のように囁きかけてくるのだと。
妖道は、怯えを隠せない助手の助川清彦を伴い、霧に煙る山道を登った。
屋敷は古びた木造の建物で、秋風が隙間を抜けるたび、軋む音が響く。
扉を押し開けると、埃っぽい空気が鼻を突いた。
部屋は奇妙な静けさに満ち、棚や机の上に、異国の機械や古い書物が散らばっていた。
清彦は好奇心を抑えきれず、部屋を歩き回る。
「清彦君、何か大事なものを触ってしまうかもしれない。気をつけなさいよ」
妖道の言葉に、清彦は笑みを浮かべて振り返った。
「大丈夫ですって、先生。それより、カツラみたいな発明品があったら、僕にくださいね」
「所有者がいるんだから、そんなわけにはいかないだろう」
壁や床には、数式がびっしりと書き込まれていた。
難解なものから、子供でも解けそうな単純なものまで。
妖道の視線が、一つの問題に留まる。
『ある店で「筆」と「半紙」を買いました。筆一本と半紙一束の値段の合計は一円一銭でした。
そして、筆の値段は半紙よりちょうど一円高いとします。では、筆一本はいくらで、半紙一束はいくらでしょう。』
その瞬間、妖道の顔色が変わった。
「清彦君、動かないで!」
だが、清彦の声は弱々しく響いた。
「先生、たぶん、遅かったかもしれません」
清彦は体重計の上に立っていた。
鏡面には、清彦の姿が映っているはずだった。
だが、そこに浮かぶのは、薄い笑みを湛えた清彦そっくりの男。目が、笑っている。
耳元で声がする。自分の声なのに、自分ではない。
「先生、耳元で声がしますぅ」
妖道は落ち着いて言った。
「清彦君、私には聞こえない。その声の言う通りに、私に伝えてくれたまえ」
清彦は震える声で繰り返す。
「俺たち二人の体重の合計は125キロだよ。鏡の中の俺は、君より25キロ重い」
体重計の横に、銀色の分銅が置かれていた。ずっしりと重いそれが、清彦の側にだけある。
鏡の中には、何もない。清彦の心に、計算が閃く。
俺がXキロなら、鏡の俺はX+25キロ。合計2X+25=125。X=50キロ。鏡の俺は75キロ。
分銅は25キロだ。これを持って乗れば、均衡が取れるはず。
「清彦君? 続きはどうした? 早く言いなさい」
妖道の声が苛立つが、清彦は応じない。代わりに、不敵な笑みを浮かべた。
「先生、大丈夫ですよ。僕、算術は得意なんです」
「これは算術じゃない! 認知の罠だ!」
清彦は分銅を両手で抱え、体重計に乗る。
針がゆっくり動き、75キロを示す。その瞬間、鏡の中の男がにやりと笑った。声が響く。
「違うよ…」
針が急に跳ね上がる。80、90、100…止まらない。
鏡の中の男が、ガラスを押し出すように近づいてくる。
「重りを、君が持つんじゃないんだ…」
分銅が熱くなり、手が離せない。溶け込むように腕に食い込み、頭の中で数字が渦を巻く。
合計125、差25。俺50、鏡75。分銅25で均衡…のはずなのに。
なぜ、鏡の俺は笑っている?ふと、清彦は気づく。でも、もう遅い。鏡の中の男が、清彦の体に重なってくる。
その刹那、妖道が清彦を蹴り飛ばした。
清彦は体重計から転げ落ち、股間にシミを広げる。
妖道が飛び乗り、鏡面めがけて分銅を投げ入れる。ガラスの割れる音が響き、扉が開いた。
「何でなんですか…」
清彦は情けなげに聞いた。妖道は静かに答えた。
「君は、自分が鏡のどちら側にいるのか考えたかね? 本当は…鏡の君が50キロで、君が75キロだったんだよ」
部屋の中には、誰もいなかった。
ただ、膨大な数の「認知の罠」に関する論文が積み上げられている。
人が直感で感じたものと、これら「認知の罠」の間にこそ、怪異が生まれる。
風間理一の論文は、そう締めくくられていた。
その夜、清彦は夢を見た。
自分の頭髪を、一本一本数える夢。だが、数えるたびに、一本ずつ減っていく。
永遠に続く減算の渦の中で、清彦の笑みが、鏡のように薄く歪むのだった。
読んで頂き有り難う御座います。




