(三十一 ) 仇討の果て、風の彼方へ
父母の無念を胸に、男は時代を斬った。
安政5年(1858年)の秋、筑前国秋月藩の家老・臼井亘理の屋敷に、産声が響いた。
長男・六郎である。父・亘理は藩内の開明派として知られ、洋式軍制の導入を強く主張し、
中央の要人・大久保利通からも厚い信頼を寄せられていた。
母・清子は穏やかな女性で、家族には小さな妹も加わり、静かな幸福に満ちていた。
「六郎よ、大きくなったら父のように国を思う男になれ」
亘理は幼い息子を抱き上げ、優しく語りかけた。
清子は微笑みながら、「旦那様、六郎はきっと立派な武士になりますわ」と応じた。
あの頃の屋敷は、秋風が木の葉を優しく揺らすように、穏やかな時を刻んでいた。
しかし、時代は激動の渦中。
守旧派の尊王攘夷勢力が、亘理の進歩的な思想を「国賊」と糾弾し、密かに刃を研いでいた。
慶応4年(1868年)5月23日の深夜、干城隊の隊士十数名が屋敷に忍び込み、
就寝中の亘理と清子を惨たらしく斬りつけた。
血の海と化した寝所で、十一歳の六郎は目を覚ました。
父の首が転がり、母の体が引き裂かれた光景は、幼い心に永遠の闇を刻み込んだ。
「父上…母上…」
六郎は震える声で呟き、朧ろげな妹の姿を最後に記憶に留めるのみで、家族は一夜にして壊滅した。
藩の裁定は理不尽を極めた。犯人たちは処罰されず、逆に臼井家が罪人扱いされ、石高を減ぜられた。
家督は亘理の弟・渡辺助太夫(のち臼井慕と改名)が継ぎ、六郎は養子として迎えられた。
幼い六郎の胸に燃え上がったのは、父母の無念を晴らす復讐の炎だった。
親族が藩に訴えても、返ってきたのはさらなる弾圧。
仇の名は当初不明だったが、十二歳の頃、通う稽古館で運命の糸を掴む。
干城隊士の弟・山本道之助が、兄・山本克己(のち一瀬直久)の自慢話を漏らしたのだ。
「兄貴が国賊の臼井亘理を斬ったんだぜ。尊王の名の下に!」
その言葉が六郎の耳に突き刺さった。
母の仇は別の隊士・萩谷伝之進と後で判明する。養父に仇討ちを申し出た六郎は、しかし諭された。
「六郎よ、今は学問と武術を磨け。時が来るまで耐えよ」
慕の言葉は重く、六郎は歯を食いしばった。
「ですが、父上! 父母の無念をこのままにしておけますか!」
慕は静かに首を振り、「耐えることが強さだ。仇討ちはただの蛮行ではない。魂の掟だ」と諭した。
決意は揺るがず、六郎は剣術と勉学に没頭した。
やがて上京し、叔父の紹介で山岡鉄舟の道場に入門。
内弟子として厳しい修業に身を投じ、そこでは一つ年下の佐久間妖道と出会った。
のちに民俗学者となる妖道は、六郎の良き語らいの相手となった。
「六郎さん、剣ばかりでは考えが狭くなります。世の中には思いもよらぬこともあるのですよ」
妖道の柔らかな言葉に、六郎は初めて笑みを浮かべた。
「ふん、妖怪話か。だが、聞かせてみろ。お前の視点は面白い」
鉄舟は六郎の復讐心を知りつつ、二人の交流を促した。
妖道の視点が、六郎の硬い心を溶かすことを期待して。
鉄舟夫妻に可愛がられ、勝海舟とも親交を深めた六郎は、ある時妖道に語った。
「妖道よ、地球儀を見たことがあるか。勝先生のところで見たが、世界とはなんとも広い。
武士であることなど、小さなものだな」
妖道は答えた。
「ええ。この世の真相を知れば、その世界すら小さくなりますよ」
「その広がりを、是非見てみたい」
「私は見るつもりです。六郎さんだって、見られますよ」
「私も見れるかね?」
妖道は揺るぎなく、「ええ、必ず」と応じた。
それから間もなく、六郎は仇の一瀬直久が東京の三十間堀に潜むことを探り当てた。
明治6年(1873年)、政府は仇討ち禁止令を発布。私的復讐は殺人罪となった。
養父から古来の禁制を聞かされつつも、六郎は封建の武士道を貫く決意を固めた。
「法は変われど、魂の掟は変わらぬ」
明治13年(1880年)12月17日、二十三歳の六郎は黒田家家扶の鵜沼不見人宅を訪れ、
二階で談笑中、一瀬が来客として現れた。
「一瀬直久…ついに」心臓が高鳴った。
周囲に人が多かったため、すぐに手を出せず、機会を窺う。
一瀬が単独で黒田本邸へ向かった隙を狙い、六郎は物陰に隠れた。
一瀬が戻った瞬間、父の形見の短刀を抜き、「父の仇、思い知れ!」と叫んで胸を刺した。
一瀬は即死に近く倒れ、六郎は本懐を遂げた。
江戸時代なら美挙と称えられた行為が、近代法治国家では犯罪となった象徴的事件だった。
騒ぎに気づいた鵜沼が屋上から声をかけると、
六郎は「父の仇を今討ちました。尊家を汚し申し訳ありません。この罪をお許しください」と答えた。
妖道が駆けつけたのは事後だった。
六郎は血まみれの姿を人目にさらすのを避け、妖道に人力車を手配させながら告げた。
「どうやら俺には、世界を見ることはできそうにない。妖道、タンポポはいいな。風に乗ってどこまでも飛んでゆける」
そう言い残し、京橋警察署へ自首した。
妖道は立ち尽くし、涙した。
六郎の心が、薄い氷のように鋭く脆いことを感じていたからだ。
鉄舟の言葉が、その正体を明かしていた。
「よいか六郎。ここで学んだことは、お前には役立たぬ。お前の心を静めるための稽古だったが、
お前はますます心を鋭くした。だから、本当の剣術を伝える。刀を抜いて斬り方を考えるな。
相手に間を詰め、刃が届いたらそのまま突き立てる。それが仇を討つ剣術だ」
今、六郎は妖道から永遠に離れていった。
裁判で六郎は終身禁獄の判決を受けた。
「我が行為は武士の掟なり。悔いなし」と法廷で毅然と述べた。
模範囚として服役し、後に恩赦で釈放された。
世論は同情的で、封建道徳と近代法の衝突を象徴する存在として語り継がれた。
釈放後、鳥栖で静かな余生を送り、大正6年(1917年)9月4日、六十歳で没した。
晩年、毎年のようにマントを羽織った学者と禿げ上がった助手の客が訪れたという。
六郎の生涯は、時代のはざまで揺れる武士の魂を映す鏡だった。
復讐の炎は消えぬまま、しかし最後に平和を見いだしたのかもしれない。
墓は故郷・秋月の古心禅寺に、父母と共に眠る。その墓前には、いつもタンポポが供えられている。
秋風が墓石を撫でるように、歴史の頁は静かに閉じられた。
読んで頂き有り難う御座います。




