(三十 ) 朝日村怪事帖
迷信が闇を呼ぶのか。闇が迷信を育てるのか。
明治三十八年、信濃国伊那郡朝日村。
九月一日の秋祭り、神社の境内は提灯の揺らめく光と人々の笑い声で賑わっていた。
酒場で働く十六歳の少女、名を花子という。
彼女は酒を運ぶ合間に、村の若者たちと冗談を交わしていた。
だが、祭りの喧噪が頂点に達した頃、花子は忽然と姿を消した。
誰一人として、彼女の去り際を見た者はいなかった。
九日後、隣村の田んぼで花子の遺体が発見された。下腹部は鋭い刃物で切り裂かれ、内臓が抉り出されていた。
だが、奇妙なことに、胆嚢だけが綺麗に抜き取られていた。
村人たちは息を呑んだ。
傷口は不自然に鋭く、まるで獣の爪で掻き毟られたよう。
遺体が水辺近くに放置されていたことも相まって、噂は急速に広がった。
「これは河童の仕業だ」
古くから伝わる土着の信仰が、事件を妖怪の領域へと引きずり込んだ。
河童は人間の尻子玉を抜くというが、胆嚢を啜るという話は、恐怖を煽るのに十分だった。
駐在所の警官さえ、それを信じ込み、深く捜査しようとはしなかった。
田舎の闇は、そうして事件を覆い隠した。
二ヶ月後、十一月三日。
天長節と長野駅落成の祝賀ムードに沸く中、製糸工場の三十歳の女性、雪江が数キロ離れた場所で死体となって見つかった。
状況は同じ。下腹部を裂かれ、胆嚢が失われていた。村は震え上がった。
化け物の影が、夜の道を這うように忍び寄る。誰が言い出したのか、河童の名が口々に囁かれるようになった。
鋭い爪で腹を裂き、胆嚢を貪る――そんな妄想が、村人の心を蝕んだ。
同年八月、さらに二人の女性が犠牲となった。
二十七歳の主婦と、十七歳の家事手伝いの少女。いずれも胆嚢を抜き取られ、水辺近くに捨てられた。
村は恐怖の坩堝と化した。夜道を歩く者は少なくなり、河童の呪いが囁かれるようになった。
明治四十年一月、四十八歳の女性の遺体が、隣町の採石所で発見された。
ミイラのように干からび、腹部に鋭い傷跡。胆嚢はやはりなくなっていた。
初めて水場から離れた場所だったため、村人の非難が上伊那警察署に殺到した。
署長の白木貞一は、地元の圧力に屈し、更迭された。
それまで駐在所の警官たちは「河童の仕業」と高を括り、上層部に報告すら怠っていたのだ。
白木貞一は四十一歳、帝国大学法科を卒業した切れ者だった。
事件の報告を受け取るや否や、人間の手による犯行だと看破した。胆嚢を狙う連続殺人。
だが、更迭された彼に残された時間はわずかだった。
そこで、彼は帝国大学の先輩、佐久間妖道に電報を打った。
「至急来村乞。信濃国伊那郡朝日村ニテ怪事頻発。官憲手ニ負ヘズ。貴殿之識見ヲ仰ギ度。白木貞一」
佐久間妖道は、助手の助川清彦を伴い、急ぎ村へ向かった。
妖道は民俗学者であり、妖怪譚の裏に潜む人間の闇を暴くことに長けていた。
白木と話し合いを進めるうち、犯人像は白木の推測と一致した。
細身の男で、男を組み伏せられないため女性ばかりを狙う。目的は胆嚢――おそらく医療品としての取引のため。
放っておけば、犯人は捕まらない。
河童の流言が広がり、村人は夜道を避けるようになった。ならば、犯人は人目を憚らず夜の道を歩く者を襲うだろう。
妖道は策を練った。女性たちに犯人撃退の術を仕込むのだ。相手の急所を狙う、原始的だが効果的な方法。
「そんな、いやですよ。なんで私が犯人役なんですか。駐在さんに頼めばいいでしょ」と、清彦がつぶやく。
「違うんだよ。君しかいないんだ。適任なんだ」と、妖道は静かに答えた。
「だったら、解決の暁には温泉三昧ですからね」
「もちろんだとも」
こうして、妖道は伊那郡の女性たちに講義を始めた。
相手の睾丸を握り、潰し、蹴る方法を、必死に教えた。
村の女性たちは、最初は戸惑ったが、恐怖がそれを駆り立てた。
夜の闇に潜む化け物を、己の手で撃退する術を身につけたのだ。
同年八月、三十二歳の女性、梅子が夜道で首を絞められた。
闇の中で、犯人の息づかいが耳に響く。
だが、梅子は訓練通りに行動した。力一杯に犯人の睾丸を握りしめた。
犯人は悶絶し、逃げ去った。
その夜は月夜で、梅子は犯人の顔をはっきり見た。水車小屋で働く馬場勝太郎。
翌日、勝太郎は逮捕された。白木の予想通り、胆嚢は医療品として売られていた。
取引相手は不明のままだったが、事件は解決した。河童の影は消え、村に平穏が戻った。
だが、清彦はというと、訓練で何度も睾丸を握られ、腫れ上がったそれを癒すため、一ヶ月の湯治を要したという。
温泉の湯に浸かりながら、彼は思った。
人間の闇は、妖怪より恐ろしいと。
よんでいただきありがとうございます。




