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(二十九 ) 阿仁の血雪

雪はすべてを隠す。だが、山はすべてを覚えている。


明治三十年(一八九七年)、帝都の空は煤煙に覆われ、鉄の響きが人々の魂を蝕んでいた。


急速な工業化がもたらした都市の過密、貧富の格差、そして西洋化の波に押し流される不安が、


若者たちの心を苛立たせていた。


帝国大学の学生たちは、そんな近代の病巣に背を向け、文明批判の旗を掲げた。


自然への回帰、失われた共同体の再構築――彼らは田舎から都会へ向かう潮流に逆らい、都会から未開の地へ足を踏み入れた。


目指したのは、出羽国阿仁山中。


古くからマタギの里として知られる村の少し離れた場所だった。


深い森に囲まれ、雪に閉ざされる厳しい土地。そこで彼らは斧を振り、土を掘り、原始の生活を築き始めた。


マタギの村の古老は、穏やかに言った。


「共に暮らせばよいではないか」と。


しかし、若者たちは首を振った。


「自らの手で開拓した村だからこそ、人は続くのです」


それ以外のことは、古老の教えを忠実に守った。


山の掟、獣の習性、雪の読み方――すべてを吸収し、彼らは五年の歳月を費やして、小さな集落を成した。


明治三十四年(一九〇一年)の冬。


厳しい寒さが山を覆う中、村で初めての赤ん坊が産声を上げた。


喜びに沸く村人たちだったが、それは束の間だった。


翌朝、夫婦の住む小屋が荒らされていることに気づいた。


扉は引き裂かれ、室内は血の海。壁に飛び散った赤黒い染み、床に染み込んだ生温かい血溜まり。


そして、夫婦と赤ん坊の姿は、忽然と消えていた。


遺体はどこにもない。ただ、雪の上に残る不気味な足跡だけが、森の奥へと続いていた。


マタギの古老は、静かに言った。


「クマじゃ」


だが、村人たちは疑問を抱いた。


クマなら、なぜ遺体が残らないのか。引きずられた跡もない。


かつて帝国大学で妖道に民俗学の講義を受けた者がいた。


彼は急ぎ阿仁合の駅まで駆け、帝都の恩師に電報を打った。


「阿仁山中ニテ異変 人影消失 怪異ノ疑アリ 至急助言乞フ」


電報を受け取ったのは、民俗学者の佐久間妖道だった。


七日後、彼と助手の助川清彦は、雪深い山道を登り、村に到着した。


妖道は、村人たちの話を聞き、煙草をくゆらせながら呟いた。


「なんとも言いがたいな。クマかも知れぬし、怪異かも知れぬ。証拠が少なすぎる。


答えのピースが揃うまで、様子を見よう。相手が生き物なら、必ず次の動きを見せるはずだ」


清彦は、妖道の言葉に頷きながらも、軽く笑った。


「温泉があるみたいですね。ちょっとハゲに効くか試してきますよ」


妖道は眉をひそめた。


「君、聞いてたかい? クマが出るそうだよ」


だが、清彦は肩をすくめた。


「クマくらい知ってますよ。マタギがいるのに来るはずないでしょ」


そう言い残し、彼は温泉へと向かった。


数日後のことだった。雪の降る夕暮れ、村に悲鳴が響いた。


清彦が、温泉から真っ裸で駆け戻ってきたのだ。


「クマだ! クマにケツをかじられた!」と叫びながら、雪上を転がるように逃げてくる。


村人たちが駆け寄ると、彼の尻に、鮮やかな三本の爪痕が赤く走っていた。血が滴り、雪を染める。


クマの仕業だと、ほぼ確信した。


村のリーダーは、皆を集め、静かに語った。


「我々が自然を壊したのだ。エゴでクマの領域に踏み入り、被害者ぶる資格はない。


これは自然からの警告。村を明け渡そう」


一同は頷き、マタギの村へ戻る支度を始めた。


雪道を歩く一行の後ろで、マタギの古老が静かに銃を構えていた。


突然、銃声が山に響いた。雪上に、一頭の巨大なクマが倒れ伏す。古老は、煙の立ち上る銃口を下げ、ゆっくりと言った。


「人の味を覚えたクマは、この通り、もとの自然には戻れませんのじゃ…」


その言葉が、若者達の心に新たな影を落とした。


クマの死骸から滴る血は、雪に溶け込み、赤い川のように広がった。


だが、村人たちは知らなかった。あのクマの瞳に映っていたのは、ただの獣の飢えではなかった。


森の奥で、何かがまだ息を潜め、人の味を求めていることを。


冬の夜は、ますます深く、暗く、沈黙を纏った。


読んで頂き有り難う御座います。

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