(二十八) どんぶらこ、名取川
川上の鬼、川下の子
明治三十五年。
初夏の陽光が柔らかく差し込む頃、
民俗学者の佐久間妖道とその助手の助川清彦は、陸奥国名取郡の名取川流域を訪れた。
目的は、風の噂に聞いた、従来の桃太郎伝説とは大きく異なる異伝を求めてのことだった。
二人は目指す集落の手前で、川で獲れた岩魚の美味に魅了され、三日間足止めを食らった。
妖道は岩魚をたらふく堪能した末、「もう岩魚など見たくもない」と腹をさすりながら歩き、
清彦は近くの温泉で頭皮を湯に浸し続け、湯あたりでふらふらになりながらも妖道の後を追った。
「君、集落で待っていてもいいんだよ」と妖道が気遣うと、清彦は不服そうに答えた。
「いやです。これから行く場所に、また頭にいい温泉があったらどうするんです」
「まだ入るつもりかね。髪が抜けるよ」
「抜けるはずありません。入れば入るほどふさふさになるんです」
名取川の上流、湿地が広がる大地のさらに奥に、噂の古老は住んでいた。
古老は来訪者を岩魚料理でもてなした。
「どうじゃ?ここの岩魚は格別の風味じゃて」
妖道は前の集落で飽きるほど食べてきたことを隠し、
苦笑いを浮かべながら箸を動かさず、岩魚を右に左に持ち替えるばかりだった。
それを見ていた清彦が薄笑いを浮かべ、「先生、熱くてお口にできないなら、ふーふーして差し上げましょうか」とからかう。
妖道はこれ以上岩魚に付き合うのは耐え難いと判断し、早々に本題へ移った。
古老は静かに語り始めた。
「まずは、この里に伝わる昔話からお話し申そう」
むかし、名取川の上流に、金に恵まれた豊かな村があった。
そこに住むのは「逆鬼払」の一族と呼ばれる者たちで、男よりも女の数がはるかに多い村だった。
村には厳しい階級のしきたりがあった。
生まれた子が女であれば大切に育てられ、男であれば奴隷として扱われた。
女児はある年頃になると、どこか遠くへ売られていったのだろうと古老は語る。
ある日、名もなき長男が耐えかねて言った。
「俺はここを去る」
彼は川を下り、湿地帯に小さな小屋を建てて暮らし始めた。
次に続いたのは次男だった。
「こんなところには居られぬ」
次男もまた長男のもとへ向かった。
それを見に来た三男は、兄弟の暮らしぶりを目の当たりにし、
「もうあの家には帰らじ」と決意した。
こうして家を捨てた三兄弟は、互いを新たな名で呼び始めた。
去った長男を「サル」、居られぬと言った次男を「イヌ」、帰らじと言った三男を「キジ」と。
川上の主たちは働き手を次々と失い、ついに冷酷な掟を定めた。
「これからは男の赤子はすべて川に流せ」
それ以来、生まれた男児はみな川に捨てられ、下流へと流された。
サル、イヌ、キジの三兄弟は、流れ着く小さな亡骸を丁寧に埋葬し続けた。
ある日、一人の女が勝手に男児を育てているのが主に知れた。
主は女を斬り、男児とともに川へ投げ捨てた。
女は瀕死の重傷を負いながらも、子を抱きしめ、必死に体をくねらせて川を下った。
桃色の着物をまとったその姿は、遠くから見れば大きな桃が流れてくるように見えたという。
どんぶらこ、どんぶらこと。
三兄弟はそれを岸に引き上げると、死にかけの女と幼子だと気づいた。
女は最後の力を振り絞り、
「この子を…頼む」とだけ言い残して息絶えた。
三兄弟は子を「桃太郎」と名付け、湿地の小屋で大切に育てた。
桃太郎は、サル、イヌ、キジの三人の兄に囲まれ、すくすくと成長した。
やがて彼は知る。兄たちが長年埋葬してきた小さな亡骸が、自分の「弟たち」であったことを。
そして、母が川上の主に殺されたことも。
真実を知った日、桃太郎の胸の奥に、静かな炎が灯った。
十二歳の誕生日を迎えたその日、桃太郎は兄たちに告げた。
「…行こう。もう、終わらせよう」
サルは黙って頷き、イヌは拳を固く握り、キジは川上をじっと見据えた。
四人は名取川をさかのぼり、かつて自分たちを奴隷とした「鬼の家」へと向かった。
それは鬼退治ではなかった。
鬼とされた者たちが、鬼の支配を祓う──逆鬼払の儀式だった。
川上の集落に討ち入った四人は、女たちを縛っていた男たちを打ち倒し、長きにわたる支配を終わらせた。
血は流れた。
だが、それは復讐ではなく、「終わり」をもたらすための行為だった。
解放された女たちは涙を流し、四人の少年を抱きしめた。
村人たちはその功績を称え、桃太郎と三兄弟に「榊原」の姓を与え、川下から川上までの土地を譲った。
名を奪われていた者たちが、初めて「家名」を持った瞬間だった。
語り終えた古老は、静かに微笑んで言った。
「それがわしらのご先祖じゃ。この土地が、その昔の場所でございます」
妖道は目を輝かせ、深く息を吸い込んだ。
「まさに、桃太郎伝説…でありますな」
名取川の流れは、百年の時を超えて、今も変わらず湿地を潤している。
読んで頂き有り難う御座います。




