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(二十七 ) 封じられた禿

「封じたのは禿げか、魂の欠片か。」


薄暗い劇場の幕裏で、榛名朔太郎は賽を投げた。


それは、ノルウェーの劇作家イプセンの『幽霊』――西洋の難解な戯曲を、青燈座の成功に賭けるという、狂気の賭けだった。


朔太郎は誰よりも理解していた。観客の多くが、この作品の深淵に沈む前に、退屈と苛立ちに苛まれるだろうことを…。


だが、彼は挑んだ。なぜなら、その物語の中に、自分の「喪失の恐怖」を重ねてしまったからだ。


稽古場は、煤けたランプの光が揺らめくばかりの闇――


朔太郎は、オスヴァル役に没入した。


光が消えていく。世界が遠ざかる。自分という存在が、ゆっくりと溶けていく。


彼は何度も同じ場面を繰り返した。指先が震え、声がかすれ、まるで本物の絶望に飲み込まれているかのように――


仲間たちは息を呑んだ。あの演技は、もはや演技ではなかった。


朔太郎の中で、何かが崩れ始めていた。


本番の夜、観客のいない虚空に向かって、彼は手を伸ばした。


「母さん、太陽がほしいよう。太陽、太陽だよう。太陽――太陽。」


その言葉が、舞台に響き渡った瞬間、朔太郎は倒れた。


過労と借財の重圧が、彼を蝕み尽くしていた。評論家たちはそっぽを向き、大衆は理解を拒んだ。


難解すぎる。早すぎる。すべてが、虚空に溶けていった。


それから、数年後――


民俗学者の佐久間妖道の助手、助川清彦は彼の舞台カツラを入手して、自らのはげ頭にそのカツラを被った。


が、それにより頭皮は赤く腫れ上がり、自力でカツラをはがすことが出来ずに、外科手術にて


剥離したモノの、その頭皮は黒ずみ、ハゲは確実に広がりを見せた。


それどころか、毎晩、同じ夢を見るようになった。


朔太郎の最期が、繰り返し訪れる。


頭頂部の黒ずみが、夢の中で広がる。現実でも、それは悪化した。


鏡に映る自分の頭皮は、黒い影のように広がり、髪が失われていく。


自然と宿った狂気が、日常を浸食し始めた。


清彦は、事あるごとに口走るようになった。


「頭皮に髪が欲しいよう。髪、髪だよう。」


妖道は、助手の壊れゆく姿を、放置できなかった。


馬込村の老農、三浦義嗣から託された硯――その不思議な代物を、使うことに決めた。


理屈はわからない。回数に限りがあるのか、永遠に使えるのか。


だが、この日のために託されたのかもしれない。妖道は考えに考え、硯を清彦の前に置いた。


清彦は、自分の髪を一本一本抜き、燃やした。その煤を、自分の血と練り合わせる。


硯の上で、それを墨のようにすりつぶし、震える手で自らの頭皮の絵を描いた。


すると、部屋に若い男の叫び声が響いた。


「母さん、太陽がほしいよう。太陽、太陽だよう。太陽――太陽。」


声は次第に遠ざかり、静寂が訪れた。


清彦の頭頂部は、元の禿げに戻った。鏡に映る自分を見て、彼は喜んだ。


しばらくの間、「ハゲ温泉」などと口にしなくなった。


妖道は、清彦が描いた“頭皮の絵”を見つめていた。


それはただの絵ではない。


血と髪の煤を混ぜた墨で描かれた、


清彦自身の「喪失の形」 だった。


硯の力は、描かれたものを封じ込める。


つまり――


清彦の禿げと、そこに宿った朔太郎の残滓を、掛け軸の中へ閉じ込めたのだ。


だが、妖道は気づいていた。


封じ込められたのは“禿げ”だけではない。


清彦の中で膨らみつつあった


「髪を求める魂」


その一部もまた、絵の中に吸い込まれたのだ。


それを裏付けるように、清彦はそれからしばらく、


髪が欲しいとは口にしなくなったのだった。


読んで頂き有り難う御座います。

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