(二十六 ) 肉付きのカツラ
髪は落ちる。だが、呪いは残る。
1919年(大正八年)、冬の東京。
街路樹の枝が霜に覆われ、冷たい風が路地を吹き抜ける頃、演劇界は西洋の息吹に染まり始めていた。
文芸協会がシェイクスピアの戯曲を上演し、芸術座のトルストイ『復活』が観客を沸かせ、
自由劇場はイプセンやハウプトマンのリアリズムを舞台に持ち込んでいた。
明治の終わりから大正初期にかけて、日本の劇界は一気に異国の風に翻弄され、
伝統の影が薄れゆく中、新たな表現者たちが台頭していた。
そんな時代に、榛名朔太郎という異才の青年が、青燈座という小さな劇団を立ち上げた。
彼は稀有な才能だけを武器に、無謀ともいえる挑戦を始めた。
後ろ盾などなく、劇団員たちは自らの持ち出しで小道具を揃え、カツラさえも自作した。
朔太郎は自らの髪を伸ばし、金属の繊維やニッケルで固定して仕立て上げたのだ。
それらは見よう見まねの粗末な代物で、頭皮に直接被れば金属片が皮膚を傷つけ、蒸し暑く息苦しい苦痛を伴った。
長時間の着用は、地獄のような耐え難いものだった。それでも、彼らは諦めなかった。
西洋劇の難解な内容を、情熱だけで押し通した。
しかし、公演は惨敗だった。
批評家たちは「難解すぎる」と酷評し、一般の観客はついてこられず、客席は空席だらけとなった。
借金は雪だるま式に膨れ上がり、朔太郎は複数の仕事を掛け持ちして返済に追われた。
やがて過労が彼の体を蝕み、ついに倒れ、息絶えた。
青燈座は解散し、残された衣装や小道具は、安値で叩き売られることとなった。
その中には、あの呪わしきカツラも含まれていた。
一方、民俗学者の佐久間妖道は、集めた古い伝承を出版するための準備に没頭していた。
書斎の棚には、妖怪や呪いの記録がびっしりと並び、薄暗いランプの光がそれらを怪しく照らしていた。
そんなある日、助手の助川清彦が興奮気味に現れた。
「先生、どうです? これで私も若返って見えるはずですよ!」
清彦は頭に不自然な黒髪のカツラを被っていた。
妖道は目を細めてそれを見つめた。
「それは、どこで手に入れたんだい?」
「格安で売られていたんです。人毛ですよ! まるで本物の髪のようでしょ?」
妖道はため息をついた。
「似合っていないね。君は禿げた頭のほうがいいよ。」
清彦は顔を赤らめた。
「禿げが似合ってるなんて、ひどいです! 私だって髪を生やしたっていいじゃないですか!」
「だが、出所不明のカツラなんて危険だぞ。古い劇団の残り物だろう?」
「危険なんかじゃないです。これが私の大切なパートナーですよ。」
そう言い残して、清彦は銀座のカフェ・プランタンへと向かった。
そこでは、彼のつるつるの禿げ頭が女給たちの間で有名で、皆が親しみを込めてからかっていた。
だが、カツラ姿の清彦を見て、女給たちはこっそり嘲笑った。
不自然な髪のライン、微妙にずれている装着感──それは滑稽で、どこか不気味だった。
カツラ生活が始まって一週間ほど経った頃、清彦は異変に気づいた。
朝、鏡の前でカツラを外そうとしたが、びくともしない。まるで皮膚に根を張ったように、ぴったりと張りついている。
引っ張れば激痛が走り、頭皮が引き裂かれるような感覚がした。
慌てて妖道の元へ駆け込んだ。
「先生、助けてください! 頭が痒くて、熱くて、痛いんです。
それなのに、このカツラが外れないんで…まるで、肉付きの面みたいに!」
妖道は本から目を上げ、冷静に言った。
「君の大事なパートナーじゃないか。外れなくたっていいだろう。」
「そんなこと言わないでください! 私の一番大切なのは先生ですよ。
でも、これは呪いなんです。肉付きの呪い…神社に行かなきゃ!」
妖道は首を振り、煙草をくゆらせた。
「おそらく、粗末な作りのカツラで、金属片が頭皮を傷つけ、化膿して癒着したのだろう。病院に行きたまえ。」
清彦は震える声で訴えた。
「違うんです、先生。夜中に、髪が動くんです。まるで生きているみたいに…
耳元で、誰かの囁きが聞こえるんです。『もっと被れ、永遠に』って。」
妖道の表情がわずかに曇ったが、結局、清彦を無理やり病院へ連れて行った。
外科医は麻酔を施し、慎重にカツラを剥ぎ取った。
金属の針金が頭皮に食い込み、腐敗した組織が絡みついていたが、なんとか除去は成功した。
清彦は安堵の息を吐き、ベッドで眠りに落ちた。
だが、数日後、退院した清彦が鏡を見たとき、彼は凍りついた。
カツラが被されていた部分の頭皮は、黒く変色し、髪の毛が一筋も生えていない禿げが広がっていた。
元々禿げていた額の部分よりも、はるかに広く、滑らかな皮膚が不自然に光っていた。
妖道が訪ねてきたとき、清彦は震える手で頭を触った。
「先生…これ、禿げが広がってるんです。カツラの下だけじゃなく、周りにも…」
妖道は黙ってそれを見つめ、静かに言った。
「傷の治癒が遅れているだけだろう。時間が経てば…」
しかし、その言葉は虚しく響いた。翌朝、清彦は新たな恐怖に襲われた。
禿げの境界線が、さらに外側へ広がっていた。
まるで黒い染みが皮膚を侵食するように、一晩で数センチも進んでいた。
痒みは再び訪れ、頭皮の下で何かが蠢く感覚がした。
鏡に映る自分の頭は、日ごとに禿げを広げ、額から後頭部へ、側頭部へ、
そして首筋へと──それは止まる気配を見せなかった。
清彦は叫んだ。
「これ以上、広がったら…全部、なくなってしまう!」
妖道は古い書物をめくりながら、呟いた。
「あのカツラに植えられた髪は、持ち主の命そのものだったのかもしれん。被った者は、その喪失を永遠に受け継ぐ…
つまり、清彦君の場合、髪の喪失を畏れる故に、それが髪に現れるのだ。」
冬の風が窓を叩く中、清彦の禿げはさらに広がりを続け、
まるで生き物のように、静かに、確実に、彼のすべてを呑み込もうとしていた。
読んで頂き有り難う御座います。




