(二十五 ) 三つ影の峠
三国峠の霧は、過去と未来と“もう一人の自分”を映す。
新潟湊から船を降り、妖道は越後路を南下した。
左足に履いたままの藁履は、旅の間中、湿った冷たさを伝え続けていた。
片足だけが変わった運命を踏む――その不均衡が、胸の棘を時折疼かせる。
やがて、塩沢宿に着いた。三国街道の要衝、雪深い魚沼の宿場町だ。
雁木の続く通りは、冬の重い雪をしのぐための屋根付き歩道で、明治のこの頃でも古い風情を残していた。
ここから先は三国峠越えで上州へ通じ、浅草へ至る道が開ける。
妖道は宿を取りながら、6日かけて塩沢の宿へと到着した。
難所である三国峠を考えて翌朝は早く峠に向かうことにした。
その朝、霧が濃かった。峠道は急峻で、木々が立ち並び、足元は落ち葉と泥で滑りやすい。
妖道は慎重に進んだが、ふと自分の影を見下ろして息を呑んだ。
影が、三つ立っていた。
一つは自分の足元に普通に落ちる影。もう一つは、少し離れた霧の中にぼんやりと。
残る一つは、さらに遠く、木の幹に重なるように揺らめいている。
三つの影が、それぞれ違う方向を向き、まるで別の存在のように動く。妖道の背筋に、八郎潟の冷たい記憶が蘇った。
あの浮き村の幻か、それとも新たな怪異か。慎重な彼は、恐怖に飲み込まれる前に足を止めた。
この日の峠越えを断念し、塩沢宿へと引き返した。
宿の主に尋ねても、「峠の霧は不思議なことを起こす」とだけ言われ、詳しくは語られなかった。
翌朝、再び峠へ向かった。
霧は前日より濃く、視界は数歩先しか届かない。妖道は提灯を掲げ、弱々しい蝋燭の光を頼りに歩いた。
火は霧の中でぼうっと広がり、まるで水中に沈んだ灯りのように揺れる。
再び、影が三つ現れた。
だが今度は、妖道は落ち着いて観察した。提灯の光が霧の水滴に乱反射し、複数の影を生み出しているのだ。
霧が鏡のように光を散らし、峠の地形が影の方向をずらす。
自然の現象――ブロッケンの幻影に似たものか、あるいは霧の層が光を屈折させる光学の遊び。
三本の影が立つことも、意味がある。すべてのことに意味はあるのだ――妖道はそう悟った。
恐怖は知性で解明し、消すことができる。
八郎潟の村が幻だったのか現実だったのか、片足だけの藁履が運命を変えるのかどうか、
それさえも、霧のように解き明かせば、ただの自然の理なのかもしれない。
胸の棘が、少しだけ軽くなった気がした。
この悟りが、後の彼を民俗学の深淵へ導く第一歩となることを、妖道自身はまだ知らなかった。
峠を越え、上州の山道を下り、妖道はようやく浅草の喧騒へと戻った。
明治の浅草は、ガス灯が灯り始め、馬車と人力車が行き交う街並み。
雷門の影が落ちる仲見世――古い江戸の残り香と新しい文明の息吹が混じり合う。
下宿屋に着いた妖道は、左足の藁履を脱ぎ、静かに座った。
霧の記憶はまだ胸に残るが、三国峠の影が教えてくれたように、すべては解明できる。
恐怖は、知ることで霧のように散る。
だが、心の奥底で、古老の声が微かに響く。
「そなたが、儂らのことを知る最後の人間かもしれんな」
東京の夜空に、霧はなかった。けれど妖道は知っていた。霧は、いつかまた彼を包むだろう。
そしてその時、彼はもう逃げない。
長い旅は終わった。だが、妖道の道は、ここから始まるのである――。
三国峠の冬景色は、雪と霧に覆われ、明治の旅人を試すように静かに佇む。
読んで頂き有り難う御座います。




