(二十四 ) 片足だけの帰路
片足だけ変わったとき、道はどこへ向かうのか。
妖道は、霧に呑まれた湖面を背に、長い帰路についた。
八郎潟の岸辺を離れる足取りは、重かった。
胸の奥に残る古老の暗い瞳と、水かきを光らせて浮島を押し出す村人たちの影が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの村は本当にあったのか。それとも、霧が作り出した幻だったのか。
問いかけても、答えは湖の底に沈んだままだった。
土崎湊町を目指して、妖道は湖の外周をひたすら歩いた。
道は細く、泥濘み、時折湖水が寄せては返す。風は冷たく、頬を刺す。
途中、いくつかの小さな村があった。
旅籠を兼ねた家々が並び、煙が立ち上っている。だが妖道は、足を止める気になれなかった。
ただ前へ、前へと進むだけだった。やがて、船越村に差し掛かった。
この村には、古い風習があるという。旅人を試す、奇妙な試みだ。
妖道は、噂だけは耳にしていた。だが、実際に村の入り口に立つと、背筋に冷たいものが走った。
茶屋の前に、老婆が座っていた。皺だらけの顔に、深い影が落ちている。
老婆は妖道を見つけると、ゆっくりと立ち上がり、声をかけた。
「旅の方、藁足はいらんかね」
そう言って、老婆は草履を差し出した。ただし、一足だけ。右の足用か、左の足用か――それだけだった。
老婆は静かに説明した。
「北風の日は右足、南風の日は左足。無風の日は、儂が旅人の顔を見て決める。そういう決まりじゃ」
その日は、無風だった。老婆は妖道の顔をじっと見つめ、長い沈黙の後、左足の藁履を差し出した。
妖道は、それを受け取った。
古びた藁履は、冷たく湿っていた。まるで湖底から拾い上げられたかのように。
「新しい運命を、片足だけ踏む」
老婆は、くぐもった声で呟いた。
「片足だけ変われば、道も変わるよ」
その言葉が、妖道の胸に棘のように刺さった。あの浮き村の古老の言葉と、重なる響きがあった。
片足だけ変わる――それで、本当に道は変わるのだろうか。
変わらないまま、ただ幻を追い続けるだけではないのか。妖道は黙って藁履を左足に履き、古い方を脱いだ。
片足だけが、新しい運命を踏む。残りの片足は、変わらぬ過去を踏み続ける。
村を後にするとき、妖道は一度だけ振り返った。老婆は、もう座っていた。まるで何事もなかったかのように。
この頃の妖道は、まだ慎重だった。
後に民俗学者となって、自ら怪異の渦中に飛び込むようになる彼とは、まるで別人のようだった。
この地域には、数々の怪異の噂があった。
夜に歩いてはならない道。湖畔に現れる子どもの影。泣き声を上げて人を誘う声――
妖道は、それらを避けるようにした。
日が暮れる前に旅籠を探し、夜間は決して外へ出なかった。部屋の中で、ただ黙って湖の方を眺めていた。
あの村の記憶が、夜の闇に溶け出してくるようで、怖かった。
数日後、ようやく土崎湊町に辿り着いた。
港は賑わっていた。船が並び、人々が荷物を運んでいる。妖道は、新潟湊行きの船に乗った。
船が出ると、八郎潟は遠ざかり、霧の中へ消えていった。船上で、妖道は左足の藁履を見下ろした。
片足だけが、変わった運命を踏んでいる。だが、胸の奥の冷たい棘は、消えなかった。
船は穏やかな海路を進み、新潟湊へと向かう。
波が静かに船を揺らす。遠くに山々が連なり、雲が低く垂れ込めている。
妖道は、目を閉じた。ここからそう遠くは無い霧の奥に、浮き村がまだ漂っているような気がした。
水かきの光る手が、島を押し、ゆっくりと湖面を滑っていく。古老の声が、耳元で囁く。
「そなたが、儂らのことを知る最後の人間かもしれんな」
船が揺れるたび、妖道の胸に冷たい波が寄せては返す。帰路は長かった。
そして、その長さの果てに待っていたのは、決して消えない記憶だった。
片足だけ変わった運命を踏みながら、妖道は家路を急いだ。
だが、心のどこかで知っていた。
道は、変わっていない。霧は、いつまでも彼を追ってくるだろう――。
読んで頂き有り難う御座います。




