(二十三 ) 沈む村の霧
八郎潟に沈むのは村か、人か、それとも——血の記憶か。
1884年。妖道が二十六歳の頃の話である。
藤田西湖の兄、西岸から、この国の古くからの伝承を、昔話のように日々聞き続けてきた妖道は、
出羽国・八郎潟の「沈む村」というものが、どうしても気になって仕方がなかった。
一晩にして、あとかたもなく消えてしまう村。
そこで暮らす者たちは、八郎潟の八郎太郎と田沢湖の辰子姫の間に生まれた子の子孫だという。
西岸は、月に一度、白い隼の真白を使って、その村の古老とやり取りをしているのだとか。
真白にだけ、その村の場所が分かるのだとか――
どうしても古老に会い、話を聞きたいと思った妖道は、無駄を承知で出羽国へと出発した。
霧にまみれたその地域は、道を隠し、湖と山すらも呑み込んでしまう。
聞いただけの村に辿り着くことなど、不可能だと妖道は思い始めていた。
だが、八郎潟の周辺を彷徨うように歩き続けているうちに、突然、その村は彼の目の前に現れた。
霧のヴェールが裂けたかのように、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がり、
妖道の足元に広がる湖面の上に、揺らぐ集落が姿を現したのだ。
妖道は、西岸の名を口にし、古老と古き伝承について語り合った。
そして、村の秘密を尋ねたとき、古老はあっさりと口を開いた。
「この村は、浮き草の上に作られた村じゃ。ゆえに、普段は接岸せずに八郎潟を漂っておる。
たまたま接岸したときに、そなたが村に来たまでのことよ」
妖道は、水上の暮らしはつらくないかと問うた。
古老は、くぐもった声で答えた。
「儂らの年になると、陸での生活がつらくなる。水に入れば、儂らは思うように動けるんじゃ」
そう言って、手足に張った水かきを見せてくれた。
皮膚は青白く、指の間を繋ぐ膜は、湖の底から這い上がってきたような不気味な光沢を帯びていた。
「儂らの先祖が河童であったのか、長い水辺の生活がこの水かきを作ったのか、儂らには分からん。
だから、儂らはここで暮らし、この場所で消えていく。百年後にはこの浮島もなくなり、
儂らもあとかたもなく消えるじゃろう。もしかしたら、お主が儂らの存在を知る、最後の人間かもしれんな」
その言葉は、妖道の胸に冷たい棘のように刺さった。
村の空気は重く淀み、湖面から立ち上る霧が、古老の皺だらけの顔をぼやけさせ、まるで彼自身が幻のように見えた。
妖道は、村人が消えゆく運命を予感し、背筋に寒気が走るのを感じた。
古老の目は、湖の深淵を覗き込むような暗さを湛え、妖道をじっと見つめていた。
あの目が、消える前の最後の記憶として、妖道の魂に刻み込まれるような気がした。
翌朝早く、妖道を岸に残すと、古老の合図とともに、村人たちが湖へと飛び込んだ。
朝靄の中で、水しぶきが不気味に響き渡る。
村人たちは浮島の側面に張り付き、皆が一斉に水中から島を押し始めた。
水かきが湖水を掻き分け、島はゆっくりと離岸していく。
あの光景は、まるで湖底の亡霊たちが、陸へと打ち上げられた村を蘇らせる儀式のようだった。
妖道は、その様子を、彼らが霧の中に溶けゆくまで見つめていた。
霧はますます濃くなり、村の輪郭を呑み込み、湖面を覆い尽くす。
消えゆく村人の姿は、ぼんやりとした影となり、最後には何も残らなかった。
ただ、静かな湖面が、妖道の足元で息づくだけ――
すると、霧を裂くようにして、一羽の白い隼が現れた。
「ピィィィィー」と鋭い叫び声を上げ、空へと舞い上がり、はばたいて消えた。
あれは、真白だと妖道はすぐに分かった。
どうりで村に辿り着けたはずだ。西岸の手回しに感謝するとともに、
彼のしてやったりの笑い顔を思い浮かべ、妖道は悔しがった。
だが、心の奥底では、別の感情が芽生えていた。
あの村は、本当に存在したのか? それとも、霧の幻が妖道の心を惑わせただけなのか?
百年後、誰も知らぬ村の秘密を、妖道は永遠に胸に秘め、霧の記憶に囚われ続けることになるだろう。
湖面から再び霧が立ち上り、妖道の視界を覆った。
消えゆく村の呟きが、耳元で永遠に響くように――。
読んで頂き有り難う御座います。




