(二十二) 霧の向こうの隣人
山に一歩踏み込めば、隣人は人ではない。
陸中国、遠野の山奥、小国村。
明治三十九年、春まだ浅い頃のこと――
三浦家を後にした妖道と清彦は、近隣の古老たちを訪ね歩き、遠野三山の伝承を集め始めた。
マタギの老夫婦の家で、早池峰山に棲むという山男の話を聞いた。
異界は遠くにあるのではなく、山に一歩踏み込めば、日常のすぐ隣に潜んでいるのだという。
距離と時間が歪み、数歩進んだだけで山の裏側に至ることもある。
マタギの妻は、清彦の襟足をじっと見つめ、静かに言った。
「お主、マヨイガに立ち入って、欲深な心でそのモノを持ち帰ったであろう」
清彦は顔を歪め、頷いた。
「やはり、あれは夢ではなかったのですね。こうして祟られているのです。
襟足がこんなにも伸びて、その代わり、頭頂部のハゲが広がっている気がするのです」
「マヨイガには、無欲でなければ、祟りありじゃ」
「どうすればよいのですか?」
「もう一度、マヨイガに行って、持ち帰ったものを置いてくればいい。
一度迷いし者は、簡単にマヨイガを見つけられるというぞい」
清彦は目を輝かせ、妖道に振り向いた。
「先生、聞きましたね。山に行きましょうよ」
襟足を煩わしげに触りながら、清彦はそう言った。
妖道は煙管をくゆらせ、頷いた。
「うむ。私も山男に興味がある。是非とも会ってみたいものだ」
二人は早池峰山へと足を踏み入れた。
霧が立ち込める山道を数歩進んだところで、清彦は異変に気づいた。
横を歩いていたはずの妖道の姿が見えない。
「先生! どこにいるんですか、私はここですよ!」
叫びながら、清彦は山中を彷徨った。どれほどの時間が経っただろう。
妖道の姿は見つからず、日が暮れ、夜となった。
腹を空かせた清彦は、何かの焼ける香りに誘われるままに歩き続け、遠くに火の光を見た。
近づくと、そこには誰もいない。ただ、串に刺された魚が二匹、美味しそうに焼けている。
空腹に耐えかね、清彦は叫んだ。
「魚の持ち主の方! 空腹で死にそうなんです。申し訳ないけれど、一匹ください」
だが、返事はない。一匹のみならず、二匹を平らげ、清彦はそのまま火の傍らで眠りに落ちた。
そして、マヨイガが現れた。
今回はタエの姿はない。前回と同じく、立派な屋敷が建ち、庭には花が咲き乱れ、鶏が遊び、牛馬が草を食んでいる。
だが、人の気配だけがない。
清彦は忘れぬうちに、付け毛を元の壁に掛けた。
膳椀が整えられ、火鉢の湯が煮えたぎっていたので、そこに腰を下ろし、食事を摂り、暫し休むことにした。
外へ出ようとしても、霧が壁のように立ち塞がり、抜け出せない。
仕方なく、清彦は食っては寝てを繰り返した。どれほどの日々が過ぎたのか、時間は曖昧に溶けていく。
一方、妖道は清彦と離れ離れになったことに気づき、独りつぶやいた。
「山に踏み入れば、境界が曖昧になり、時間や距離、場所が歪む。つまり、心に強く思い描いた場所へ運ばれる。
わしは山男を、清彦はきっとマヨイガを思ったに違いない」
異界とはいえ、ここは早池峰山であろう。
妖道は山男を心に描き、霧の中をひたすら歩いた。
暫くすると、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声が聞こえた。
その声に向かって進むと、二メートルはあろうかという巨躯の男が立っていた。
妖道はその風体から、山男であると直感した。
「導きし者。私に話が聞きたいのであろう。何でも聞きなさい」
その言葉は日本語ではない。どの言語でもない。だが、妖道にはその意味が理解できた。
「あなたは山男と呼ばれるものですね。なぜ、ここに住まうのですか?」
山男はゆっくりと答えた。
「我らは、人間の隣人として長い間、山と里の境界を守ってきた。
山と里の境界が乱れれば、山の獣が人間の住む里へとなだれ込み、大変なことになる。
それを山男が異界として切り離し、守ってきた。けれど、人間は山の木を切り倒し、山を開拓したために、
我ら山男の力がなくなりつつある。数百年前まで山女が生まれたが、今では稀だ。
しかも繁殖の力が無くなったので、我ら山男は人の女と交わり、子を残したが、最早、それもかなわなくなった。
山男の数は減り、あと百年もすれば、異界は消え失せ、山の境界は意味を無くして、山の獣が人の里へと流れ込むであろう」
妖道は静かに頷いた。
「うむ。確かにそなたの言う通りであろう。その意味が我ら人間に理解できるようになったとき、
おそらく手遅れになっておるであろうな。だが、約束しよう。私はこの民俗学を通じて、
この警告を後世に必ず残してみせましょう」
山男は頷き、言った。
「では、お連れの者も一緒に異界の外へとお連れしましょう」
霧が一気に立ち込め、真っ白になったかと思うと、妖道は山の麓に立っていた。足下には清彦が眠りこけている。
妖道は清彦の頭を足で軽く突ついた。
清彦は目を覚まし、襟足を触り、「やったー、呪いが解けた!」と大騒ぎした。
そして、すぐに妖道に言った。
「半年も私を置いて、どこに行っていたんですか?」
話を聞けば、清彦はマヨイガの中で半年間、外に出ようとしても出られず、食っては寝てを繰り返していたそうだ。
確かに、清彦の襟足は消え、ハゲも元の広さに戻っていたが、マヨイガのものは自分の魂の副産物。
つまり、清彦は自分の魂を食っていたわけで、そのことに清彦は気づいていないようだった。
妖道は何も言わなかった。
ただ、清彦の瞳の奥に、ほんの僅か、タエの影が宿っていることに気づき、背筋が冷たくなった。
遠野の山は、今日も霧を湛えている。
異界は消えゆく定めにあるが、欲したものは、百年を越えて、必ず返ってくる。
それが祝福か、呪いか――あるいは、魂の欠片を永遠に失う代償か。誰にもわからない。
ただ、清彦の頭頂部が、今日も静かに広がりを見せていることだけが、確かだった。
読んで頂き有り難う御座います。




