(二十一 ) 潮影喰(しおかげぐい)
夕暮れ、影が薄れる。潮が満ちれば、死が来る。
一九〇八年、春。
民俗学者の佐久間妖道と助手の助川清彦は、安芸国御手洗村に滞在していた。
この村は、風待ちの港として知られる小さな島に位置する。
潮の流れが変わるまで、旅人はここから出ることができない。
夕暮れが訪れると、村の影は不気味に薄れ、ぼんやりと溶け込むように見えるのだ。
「あれ? こんな小さな島なのに、芸者がいるのですか? 賑やかな音色がこんな浜辺まで聞こえてきますよ」
清彦は目を丸くし、音のする方へ耳を傾けた。
「見かけは小さな島だが、潮目が変わるまで旅人はここを離れられない。だから、ここにないものは何もないさ」
妖道は静かに答えた。
「うほほほ。早く行きましょう、先生。置いていきますよ!」
そう言って、清彦は見事に禿げ上がった頭頂部に潮風を浴びながら、駆け出した。
妖道がこの村を訪れたのは、偶然ではない。村には「影を喰う女」の噂が流れていた。
夕暮れになると影が薄くなり、影を奪われた者は翌朝には息絶えているという。
今月だけで五人の死者が出たそうだ。
その噂が旅人の間に広まれば、村は経済的に大打撃を受ける。古老はそのことを懸念し、妖道を招いたのだ。
妖道は賓客として迎え入れられた。一方、清彦は頰を赤らめ、目に熱い光を宿して女性たちを見回している。
その禿げた頭頂部さえ、欲情に染まったように赤く輝いていた。
その様子に、妖道はぽつりと呟いた。
「やっぱり君は女好きだね」
清彦は芸者に案内されるまま、だらしなく紅潮した禿頭を携えて奥の間へ消えていった。
妖道はすぐに古老からこれまでの出来事を聞き出した。
「影を喰う女が出るとか、なぜ男ではないのでしょう。古来、こうした言い伝えには何かしらの理由がつきものです。
あなたはこの島の生き字引でもありましょう。お聞かせ願えますか、過去のこの島の話を…」
妖道は古老の目を凝視した。
古老は渋々話し始めた。
「今だからこの繁栄ぶりです。旅人のいない昔は、それはもう悲惨なものでした。小さな島の小さな村です。
魚を捕って売るしか何もない場所。海が荒れれば漁に出られず、産まれる子供を間引きました。それも女児だけ。
男は海に出られるが、女はそうはいかない」
「なるほど。女というのは、そこから来ているようですな。つまり、相手は得体の知れないものということです。
助手を置いていきますので、彼が騒ぐことがあったら、海岸の漁村にいますから使いをお願いします」
「お連れの方に先生の居場所を聞かれたら知らせてもよろしいですか?」
「ははは。彼は自分に何か起きて騒ぐまでの間、私のことなど忘れているでしょうよ。あれは女好きなので」
そう言って、妖道は古老の屋敷を後にした。
それから三日後、古老からの使いが来た。行ってみれば、清彦が騒いでいる。
「先生! ひどいじゃないですか! 私一人をこんな場所に置いていって」
「三日も経って、よくもまあ、そんな言葉を君は口にできたものだね。で、何かあったのかね」
「そうなんです。私の影が薄いのです。まるで消えてしまうかのように」
「ほうほう。女に影を喰われたね。影が消えると死ぬそうだよ」
「いやだー! 先生、助けてください」
「もう、女好きを直す、というのであれば、助けないわけではないよ」
「わかりました。もう女は懲り懲りです」
「いいかい。その言葉、忘れないようにね」
妖道は蝋燭の炎が細長く伸びる様子を見て、
「やはりそうか」と口にした。
「古老が、おわかりになったのですか?」と問う。
「まあね。ただ断言するにはいくつか確証がほしい」
どうやら、風はあの井戸から吹いているらしい。
妖道が真っ白い鉛酢紙を取り出した。それを井戸に垂らすと、紙はみるみる黒く変色した。
間違いない。硫化水素だ。
他にメタンや混合ガスが混じっているのだろう。これを吸い込むと、目のコントラストが狂う。
つまり、影が薄く見えたり、白く見えたりするようになる。重度になれば、影すら見えなくなるかも知れない。
そうなれば、死に至るということではなかろうか。
ここは島だ。だから潮の満ち引き、海の状態で井戸からガスが吹き出すのだろう。
涸れた井戸は危険だから、早めに埋めた方がいい。
「先生、もしかしたら、私のこと、実験台として置いていったんじゃないですか?」
「君が勝手に残ったのだろう。それに、ミイラが二人になっても困るだろうよ」
妖道は、黒く染まった鉛酢紙をそっと折り畳むと、井戸の縁に置いた。
潮の匂いが濃く、風はまだ井戸の底から吹き上げている。
「影を喰う女、か…。正体はただのガスにすぎん。だが——」
妖道は井戸の闇を覗き込み、かすかに眉をひそめた。
「人が恐れ続けた年月が、影に形を与えることもある。
迷信とは、いつだって“何か”を呼び寄せるものだよ」
清彦は震える声で言った。
「せ、先生…もう帰りましょう。影が…また薄くなってきました」
夕暮れの光が、御手洗の白壁を淡く染めていた。
潮が満ち、村の影がふっと揺らぐ。
妖道は立ち上がり、島の方角を一度だけ振り返った。
「井戸は埋めても、人の業は埋まらん。
この村が過去に縛られている限り、影もまた、ここに留まり続けるだろう」
そう言い残し、妖道は清彦を連れて港へ向かった。
風待ちの船が、ちょうど帆を上げようとしている。
背後で、井戸の底からかすかな吐息のような音がした。
それは潮の音か、あるいは——
影を喰う女の名残か。
誰にも確かめる術はなかった。
読んで頂き有り難う御座います。




