(二十) マヨイガの黒髪
百年の霧が隠したものは、富か、呪いか。
陸中国、遠野の山奥、小国村。
明治三十九年、春まだ浅い頃のことだった。
民俗学者の佐久間妖道は、助手の助川清彦を伴い、三浦家の古びた座敷に腰を据えていた。
囲炉裏の火は弱く、煙が天井の梁に絡みついて、部屋全体を薄ぼんやりとした闇に包んでいる。
三浦家の当主は、声を潜めるように語り始めた。
「わが家の高祖母、タエという女がおりましてな。蕗を採りに山へ入った折、道に迷うて、
ふと見れば立派な屋敷が建っておったそうじゃ。庭には花が咲き乱れ、鶏が遊び、牛馬が草を食んでおる。
だが人の気配だけがない。不思議に思いながら家を覗けば、膳椀が整えられ、火鉢の湯が煮えたぎっておる。
タエは怖気づきながらも、赤い椀を一つ持ち帰った。
それ以来、三浦家は代々栄え、村一番の家となった、という話でございます」
当主は苦笑した。
「百年も経てば、話は変わるもの。わしには眉唾にしか聞こえませぬよ」
妖道は静かに頷き、煙管をくゆらせながら言った。
「百年という月日は、記憶を薄れさせます。しかし、同時に、残すべきものだけを残すふるいでもある。
語り継がれたという事実そのものが、この土地に確かに何かが息づいていた証でしょう」
その夜、清彦は座敷の隅でうとうとと眠りに落ちた。
夢を見た。山道を歩いていると、小さな少女が現れた。古めかしい着物をまとい、長い黒髪を背中に垂らしている。
少女は振り返り、微笑んだ。
「腹が減っておろう。こちらへおいで」
導かれるままに進むと、霧の奥に屋敷が浮かび上がった。
庭には春の花が咲き、鶏が鳴き、牛馬がゆったりと草を食んでいる。だが人の姿はない。
家の中に入ると、膳椀が並び、火鉢の湯が静かに沸いている。
少女――タエと名乗った――は笑った。
「ここはマヨイガじゃ。夢と現の境にある。だから起きて探しても、見つからぬ」
清彦は呟いた。
「まるで妖道先生がお話しくださったマヨイガだ」
タエは頷いた。
「そうじゃとも」
清彦はふと気づいた。
「でも、これは僕の夢だ」
タエの笑みが深くなった。
「だからこそ、お主はここに辿り着けた。この屋敷の全ては、わしの魂でできておる。
お主が持ち帰れば、お主の魂も少しずつ削られる。
だが、欲するなら、何か持って帰れ。これはもう、お主自身の魂が形作ったものじゃ」
清彦は首を振った。
「髪もないというのに寿命が縮むなら、いりません」
それでも視線は、壁に掛けられた一つの品に吸い寄せられた。
見事な黒髪の付け毛だった。艶やかで、まるで生きているように光っている。
清彦は手を伸ばした。
「これだけ…これだけは、いただいていく」
付け毛を掴んだ瞬間、足元が揺れた。
庭へ飛び出し、池の縁でつまずき、水面へと落ちていく。
冷たい水が体を包んで、――目覚めた。
座敷の闇の中、囲炉裏の残り火が赤く瞬いている。
「先生…お話、終わりましたか?」
妖道は煙管を置き、残念そうに言った。
「成果は得られなかったよ。マヨイガの話は、言い伝えと共に消えてしまったようだ」
ふと、清彦の懐に視線を落とした。
「おや、君の懐から覗いているそれは…?」
清彦は手を入れ、何かを引き出した。長い黒髪の付け毛だった。夢の中で掴んだ、あのままの艶やかさで。
清彦は息を呑んだ。
「あ…タエさんに会いました。マヨイガは、夢の中にあります」
妖道は笑った。
「夢現の境で当主の話を聞いていたから、タエが夢に出たのだろう。面白い冗談だ」
清彦は何度も首を振ったが、妖道は笑うばかりだった。
その夜、三浦家の離れで、清彦は再び眠りに落ちた。夢ではない、と思った。
誰かが髪を梳いている。優しい手つきで、自分の髪を。耳元で囁く声がした。
「お主が持って帰ったのは、わしの髪じゃ。わしは、お主の魂を少しずつ梳いておる。
いつか、お主の髪も、わしのように艶やかになる」
清彦は目を開けた。
闇の中、枕元に長い黒髪が一筋、垂れ下がっていた。
自分の髪ではない。翌朝、妖道は清彦の異変に気づいた。
「どうした、清彦君。顔色が悪いぞ」
清彦は鏡を見た。自分の髪の襟足がわずかに伸びている気がした。
いや、伸びているのではない。
黒く、艶やかに、別の何かが混じり始めている。
三浦家の当主は、朝の茶を運びながら、ふと呟いた。
「そういえば、高祖母タエは、晩年まで髪が美しかったそうじゃ。死ぬ間際まで、毎日誰かに梳かせておったとか」
妖道は笑った。
「面白い話だな」だが、清彦だけは笑えなかった。
遠野の山々は、その日も変わらず霧をまとっていた。
人の営みなど意に介さぬように、ただ静かに、深く。
清彦は、襟足に触れた。
指先に絡む髪は、昨日よりもわずかに長く、艶やかだった。
それが自分のものか、タエのものか、もう判じがたかった。
妖道は、何も言わなかった。
ただ、清彦の背に落ちる影を見つめていた。
その影の形が、ほんの少しだけ、女の姿に似ていることに気づきながら。
三浦家の当主は、囲炉裏に薪をくべた。
ぱちり、と火が弾ける。
その音が、百年前のタエの足音のように思えた。
遠野の山は、今日も霧を湛えている。
マヨイガは、誰にも見つからぬまま、
夢と現の境で、静かに息をしている。
そして――
欲したものは、百年を越えて、必ず返ってくる。
それが祝福か、呪いかは、誰にもわからない。
ただひとつ確かなのは、
清彦の髪の襟足が、今日もまた、静かに伸び、頭頂部のハゲが広がりを見せているということだけだった。
読んで頂き有り難う御座います




