(三)雪女の口寄せ
雪深き峠に潜む白き影――それは伝承か、罠か、怪異か。
会津国磐梯山の八十里越えは、古来より死がつきものであった。
越後の塩と海産物を会津へ、会津の米と絹を越後へ運ぶ行商人の血と汗が染み込んだ道。
雪深い冬ともなれば、吹雪は人の体温を奪い、凍った屍を白く塗り固めてしまう。
そんな峠に、白き衣をまとった女が現れるという噂が立った。
出会った者はみな凍死して、助かった者はいない。
凍りついた顔には、恐怖と恍惚が混じり合ったような表情が残っていたという。
いつしか人々は囁き始めた。
「あれは雪女だ」
「白い着物を着て、男を誘い、息の根を止める」
行商人の足は遠のき、峠はますます寂しくなっていった。
その噂を耳にしたのが、民俗学者の佐久間妖道だった。
妖道は学識を備えた旅の徒であり、その健脚は旅人にも劣らなかった。
背は低いが眼光は鋭く、黒い外套を翻してどこへでも出かけていく。
助手の助川清彦は、年齢に似つかわしくないほど禿げ上がった頭をしており、頭頂部はいつもつややかに光っている。
二人は雪の磐梯山へ向かった。
妖道は「雪女などというものは存在しない」と言い切っていたが、その声にはどこか期待が混じっていた。
雪は深かった。
足を取られ、膝まで埋まる。
妖道は杖で雪を突きながら進み、清彦はその後ろを喘ぎ喘ぎついてくる。
「先生、ほんとに雪女なんているんですかね」
「いるさ。ただ、人間が作り上げた雪女がな」
昼過ぎ、吹雪が強まる中、二人は小さな山小屋を見つけた。
扉を開けると、炭の匂いと人の気配。
火の前に、三人の女が座っていた。白い着物だ。
雪のように白い。
一瞬、二人は息を呑んだ。女たちはゆっくりと顔を上げた。目が、ない。いや、盲目だった。
だが、その盲目の女たちは異様に美しかった。
髪は黒く艶やかで、かんざしは金の鶴、銀の蝶、瑪瑙の花が輝いている。首には翡翠の勾玉、耳には珊瑚の輪。
まるで祭りの日の花嫁のように飾り立てていた。
「こちらは恐山のイタコでございます」
年長らしい女が、静かに言った。
「吹雪で道に迷い、ここに避難してまいりました」
妖道の目がぎらりと光った。
「ほう、イタコか。口寄せはできるのかね。死んだ者の声を聞けるのかね」
清彦が慌てて袖を引く。
「先生、お疲れでしょう。お休みなさいって、イタコさんたちもおっしゃってるじゃありませんか」
女たちは微笑んだだけだった。
その笑みは、氷のように冷たく、どこか不自然だった。
夜が更け、火が小さくなった頃、イタコたちは立ち上がった。
「そろそろ参ります。ご一緒しませんか」
清彦がまた勝手に口を開いた。
「ええ、どうぞどうぞ。一緒に行きましょう」
妖道は黙って頷いたが、すぐには動かなかった。
清彦が先に立って女たちと小屋を出る。妖道は少し遅れて、距離を置いて後を追った。
雪はますます激しくなっていた。
風が唸りを上げ、白い闇が渦を巻く。しばらく行ったところで、清彦の悲鳴が聞こえた。
妖道が駆けつけると、絶壁際で清彦が女たちに押さえつけられていた。
三人がかりで、禿げ頭を掴み、崖の下へと突き出そうとしている。
清彦の顔は真っ赤になり、目は血走っていた。
妖道は手にした杖を振り上げ、一番近くの女に投げつけた。
杖は女の眉間を打ち、女は悲鳴を上げて崖下へ転がり落ちた。
残る二人は、まるで白い幽霊のようにはらはらと雪の中へ消えていった。
清彦は地面にへたり込み、震える手で頭を撫でた。
「死ぬ、死ぬところだった…」
妖道は冷たく笑った。
「だからついて行くんじゃないと言ったのに」
「先生…お気づきだったんですか」
「ああ。お前が邪魔したせいで、確かめる暇もなかったがな」
妖道は杖を拾い上げ、雪を払った。
「目が見えぬ女が、どうしてあれほど身を飾る?金銀珠玉をじゃらじゃらと、まるで『見ろ見ろ』と言わんばかりに。
あれはな、行商人を襲って、身ぐるみ剥いでいたんだよ。白い着物は雪に紛れるため。盲目を装うのは、疑われぬため。」
清彦は顔を上げた。
雪が、禿げ頭に積もり始めていた。
「…俺を、おとりにしたんですか」
妖道は肩をすくめた。
「お前が勝手に付いて行ったんだろう」
風が唸った。
どこか遠くで、女の笑い声のようなものが聞こえた気がした。
白い雪が、二人の足跡を、静かに、確かに、消していった。
まるで、誰もそこを通らなかったかのように。
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