(二)神隠しの柿の木
捨てられた子が、四十年後に家を間引きに戻る。
東国の山深い村々では、飢えという見えざる手が、静かに人々の喉を締めていた。
土はひび割れ、稲は枯れ、家族の憂いの影は日ごとに長く伸びる。
生まれた子を「調整」と称し、夜の森へ連れ出すのは、もはや罪ではなく、生き残るための儀式だった。
帰らぬ子は山の神に捧げられたと、村人たちは自分に言い聞かせる。
サトの家も例外ではなかった。祖父、祖母、父、母、兄のタケ、弟のカンタ、妹のスミ――八つの口が、わずかな芋を分け合う。
秋の午後、サトはスミと近所の子供たちを連れ、誰も知らない柿の木を目指した。
木の根元に草履を揃え、サトは枝をよじ登る。橙色の実は熟れ、甘い匂いを放つ。
一つ、二つと落とし、下の子供たちが笑いながら拾う。やがて実が途切れた。
スミが木を見上げる。サトの姿はなく、草履だけが風に揺れていた。
「神隠しだ」
村人たちは囁いた。山の神が子をさらったのだと。
それから四十年。五十歳になったサトが、忽然と村に戻ってきた。
顔は若々しく、目は深い森の底のような黒。
家は変わり果て、父も母も亡く、兄タケと弟カンタの家族が幅を利かせていた。
タケはサトを睨み、吐き捨てる。
「帰ってきても、お前に食わせる飯はない」
サトは静かに頷いた。
「うん。それでいい。ただ、懐かしくて様子を見に来ただけだ」
翌朝、サトの姿は消えていた。――霧の朝、佐久間妖道と助川清彦は、馬車を降りて村の入り口に立った。
妖道は黒い外套を翻し、杖を突きながら周囲を見回す。
清彦は禿げ上がった頭頂部を無意識に撫で、息を潜めた。
「この村の噂、聞いたか」
妖道は低く呟く。
「四十年ぶりに戻った女。神隠しの子が、家族の元へ。だが、翌朝には消えている。そして、その後間もなく家が絶えた。」
清彦は頷く。
頭の皿のような禿げが、冷たい風に光る。
「山の神が、間引きを真似ているんですか。人間の代わりに、家ごと」
二人は村の長老の家を訪ねた。
古びた民家で、老人が火鉢に手を翳しながら語る。
「サトは、確かに戻ってきた。だが、目が違った。まるで森の奥から覗く獣のよう。
タケの家で一晩過ごし、朝にはいなくなった。それから、タケの家族が…」
老人の声が震える。
「一人、また一人と消えた。最初は子供、次に妻。そしてタケ自身。
家は空っぽになり、村の食料は少し増えた。まるで、均衡が保たれたように」
妖道の目が細まる。
「山の神の使いか。捨てられた子を育て、四十年に帰す。
家族の有様を見せ、『この家を間引いていいか』と問う。人間の間引きを、神が模倣する」
清彦の喉が鳴る。
「それで、サトは…」
夜が深まった。妖道と清彦は、タケの旧家に泊まる。
廃墟のような家屋、カビと腐敗の匂いが漂う。深夜、床下から音がした。ごそごそと、何かが這う音。
清彦は禿げ頭を撫で、妖道に囁く。
「聞こえる…あれは」
妖道は頷き、床板をこじ開ける。
暗闇の中、痩せ細った影が這い出た。
十歳そこそこの少女の亡骸だ。皮膚は土にまみれ、目は虚ろに開いたまま。
腐敗の臭いが一気に広がり、清彦は息を詰まらせた。
おそらくサトは四十年前に既に両親に間引かれ殺されていたのであろう。
それを知らぬモノが神隠しと騒ぎ立てれば、魂魄だけでも我が家へと帰ろうとしたのだろうよ。
妖道は杖を握りしめ、亡骸を凝視する。
少女の唇が、微かに動いた。かすかな声が、床下の闇から響く。
「…お腹…すいた…」
清彦の顔が青ざめる。
亡骸の指が、ゆっくりと這い上がり、二人の足元に絡みつく。
冷たい感触が肌を刺す。妖道は外套を払い、杖を振り下ろすが、影は霧のように散るだけだった。
翌朝、村は再び霧に包まれていた。
タケの旧家は空っぽ。妖道と清彦の姿はなく、ただ床下に新たな草履が一足、風に揺れていた。
村人たちは囁く。
「また、神隠しだ」
山の神は、飢えの均衡を保ち続ける。
帰らぬ魂は、永遠に家を求め、間引きの儀式を繰り返す。
森の奥から、橙色の柿の甘い匂いが、静かに漂ってくる。
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