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紫影と七変伝  作者: ドクター・減る


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第十五話 洋楽誤読の系譜――あるいは鷹と寺石の周波数戦争

洋楽誤読の系譜――あるいは鷹と寺石の周波数戦争


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## 序 音楽という異界


鷹は音楽を聴く時、眼帯を外さない。


 片眼で世界を見る男が、さらに耳だけに集中すると、何が起きるか。鷹本人に言わせれば「余計なものが全部消える」ということになる。ラジカセのイヤホンを片耳に差し込み、もう片方を外したまま、スケッチブックと向き合う。音が入り、線が出る。この回路が、鷹にとっての放課後だった。


 問題は、寺石がいる時に限って、その回路が断絶されることだった。


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## 第一章 ベヘイレン事件


ある日の放課後。部室には、鷹と寺石の二人が残っていた。


 鷹は、ラジカセから流れるハードロックに頭を揺らしながら、絵筆を動かしていた。


 「やはり、ヴァン・ヘイレンのリフは最高だな。この『ジャンプ』のキーボードの音色は、魂を解放するようだ。」


 その言葉に、回路図を睨んでいた寺石が、猛然と反応した。眼鏡の奥の瞳が、一瞬にして検閲官の鋭さに変わる。


 「……何? 鷹よ、貴様今、なんと申した?」


 「え? だから、ヴァン・ヘイレンが……」


 「ベヘイレン(ベ平連)だと!?」


 寺石は椅子を蹴倒して立ち上がった。


 「『ベトナムに平和を!市民連合』……あの亡霊ごとき左翼運動が、未だ地下で活動を続けているというのか! しかも『ジャンプ』だと? 何たる事だ、彼らは今度は暴力革命への飛躍ジャンプを画策しているのか!」


 「いや、寺石、違う。アメリカのハードロックバンドだ。」


 「黙れ! 米国のバンドだと? 欺瞞だ! それはKGBの狗どもが、西側諸国の若者を堕落させるために送り込んだ、文化工作部隊の隠れ蓑に違いない! 貴様、そのようなプロパガンダに魂を売るとは、嘆かわしい!」


 寺石の脳内辞書には、「ヴァン・ヘイレン(Van Halen)」という項目は存在しない。あるのは「ベ平連」という昭和の政治運動の記憶のみである。


 鷹はため息をついた。訂正を諦めた。寺石の思想フィルターを通せば、陽気なロックバンドも、共産圏の陰謀へと変貌するのだ。


 鉛筆を持ち直し、線を一本引いた。


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## 第二章 情事魔事件


また別の日。


 鷹が甘いバラードを口ずさんでいた時である。


 「やっぱ、ジョージ・マイケルはいいなぁ。この『フェイス』の色気、たまらんよ。」


 その時、寺石の手が止まった。彼は持っていた半田ごてを置き、信じられないものを見る目で鷹を凝視した。


 「……鷹よ。貴様、そこまで堕ちたか。」


 「は? 何が?」


 「貴様は今、こう言ったな。『情事ジョージ、行ける』と。」


 「言ってない!」


 寺石は聞く耳を持たない。彼の脳内では、鷹の言葉が最も淫靡で背徳的な漢字へと変換されていた。


 「『情事魔』……なんと破廉恥な響きか。しかも『行ける』とは、その魔性との不義密通を肯定する言葉。ただ事ではないな。相手は誰なのだ? まさか、人妻か? あるいは、ハニートラップの類か?」


 「違う! 歌手だ! 元ワム!の!」


 「和む(ワム)? 情事を行って和むとは、最早快楽主義の極致! 貴様の精神は、ローマ帝国末期の退廃そのものだ!」


 寺石は戦慄した。友人が、知らぬ間に「情事魔」なる妖怪変化に取り憑かれ、快楽の泥沼に沈んでいると確信したのだ。彼は真剣に、鷹の思想改造を検討し始めた。


 鷹は線を一本引いた。消した。また引いた。


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## 第三章 権力との闘争事件


ある時、鷹が名曲『見つめていたい』について語った。


 「俺はポリスのスティングが好きなんだ。あの、ストーカー的なまでの執着愛、最高にクールだろ?」


 その瞬間、寺石は机の下に身を隠し、周囲を警戒し始めた。


 「……シッ! 声を落とせ、鷹!」


 「な、何だよ急に。」


 「貴様、ポリス(警察権力)のスティング(囮捜査)が好きだと? 正気か? 奴らは我々のような思想犯を常に監視しているのだぞ!」


 「バンド名だってば!」


 「騙されるな! 『見つめていたい(Every Breath You Take)』……ほら見ろ! これはラブソングではない。『貴様の呼吸の一つ一つまで監視しているぞ』という、国家権力からの恫喝だ! パノプティコン(一望監視施設)の恐怖を歌っているのだ!」


 奇妙なことに、この解釈に関しては、あながち間違ってもいなかった(原曲も監視をテーマにしている側面がある)ため、鷹は反論に窮した。寺石は勝ち誇ったように言った。


 「見ろ、私の洞察は正しかった。やはり、洋楽とは、西側諸国の監視システムを正当化するための洗脳装置なのだ。」


 鷹は天井を見上げた。何も言わなかった。


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## 第四章 聖母詐称事件


極め付けは、マドンナであった。


 鷹がポスターを見ながら呟く。


 「マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』、いつ聴いても衝撃的だよな。」


 寺石は、雷に打たれたように硬直した。


 彼はカトリック系の学園に身を置きながらも、その信仰の根底にあるのは日本古来の八百万の神であった。彼にとってキリスト教の神もまた、数多ある神々の一柱に過ぎない。しかしそれ故にこそ、あらゆる神格に対する非礼を許さぬ独自の宗教的潔癖さを持っていた。


 「……鷹よ。貴様、今、神域を侵犯したな。」


 「はあ?」


 「マドンナ(聖母マリア)の名を騙る歌手が、あろうことか『ライク・ア・バージン(処女のようだ)』などと歌うとは、何たる不敬かッ!!」


 「だから歌手の名前だって! そういうタイトルの曲なんだよ!」


 「黙れ! 聖母の名を詐称し、あろうことか『処女の如き』などと嘯く女がいるとすれば、それは神威を汚すバビロンの大淫婦、あるいは狐狸妖怪の類に他ならぬ! 八百万の神々も、そのような無礼な歌には眉をひそめておられるわ!」


 かくて、寺石の世界において、洋楽のヒットチャートは「左翼運動家(ベ平連)」と「色情魔(情事魔)」と「国家権力ポリス」と「異端の魔女マドンナ」が跳梁跋扈する、陰謀と背徳の地獄絵図と化した。


 彼は、鷹が差し出すCDを放射性廃棄物でも扱うかのように弾き飛ばし、再び壊れた回路基板へと視線を戻した。


 「……ふん。やはり信じられるのは、このシリコンの論理と、八百万の神々の沈黙のみだ。」


 寺石は、半田ごての煙に巻かれながら、祝詞のようなリズムでぶつぶつと呟き始めた。


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## 終章 別の周波数


鷹は、寺石の背中をしばらく見ていた。


 ベ平連、情事魔、監視国家、聖母詐称。今日だけで四つの事件が起きた。被害者は全員、鷹が愛した音楽だった。


 しかし、鷹は怒っていなかった。


 (あの男には、あの男の周波数がある。)


 鷹はラジカセのボリュームを少し上げた。寺石には聞こえない音量で、しかし自分の耳には届く程度に。


 イヤホンを片耳に差し込んだ。


 スケッチブックを開いた。


 音が入り、線が出た。その回路だけは、誰にも侵されなかった。

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