第十四話 言語の魔人と南洋の仮面――あるいは琢磨(パクパー)の肖像
第一章 化学式の誤読
理科の授業中、琢磨は黒板を見つめ、眉根を寄せていた。
教師がチョークで書いたのはごく単純な化学式だった。H₂O。授業の最初の一行目である。
「……パクパー。」
隣の席の白井が、声をひそめて呼んだ。試験範囲の確認を頼もうとした。
「待て。」
琢磨は白井を手で制し、黒板から目を離さなかった。
「この記号の配置……H、そして₂、O。」彼は口の中で反芻するように呟いた。「これはヒッタイト語の楔形文字の変形ではないのか。いや、むしろ線文字βにおける水を意味する音節表記に近い。」
「それは水の化学式だ。」白井が言った。
「水?」
「水だ。」
琢磨はしばらく黙っていた。それから「ふむ」と言い、ノートに何かを書き始めた。白井は横から覗き込んだ。琢磨は「水=H₂O(ヒッタイト説・要検証)」と記していた。
教師が次の式を書いた。NaCl。
琢磨の眉根が再び寄った。
第二章 パクパーの由来
放課後、部室で白井が寺石にその話をすると、寺石は眼鏡を拭きながら頷いた。
「化学式とルーン文字の混同は今に始まったことではない。先月は周期表を見て『これは古代フェニキアの交易記録の様式に似ている』と言い出し、教師を一時間詰まらせた。」
「あの男の語学は本物なのか。」
「本物だ。」寺石は断言した。「先週、転校してきたドイツ人留学生と廊下で出くわした際、相手が面食らうほど流暢なドイツ語で挨拶した。その翌日、スワヒリ語で話しかけた留学生はいなかったので確認できていないが、本人は喋れると言っている。」
「十数ヶ国語というのは。」
「本人の申告だ。ただ、線文字βを独学で読んだのは事実で、これは教師が確認している。中学の時の話だ。」
白井はしばらく考えた。
「あだ名の由来は何だ。」
「諸説ある。」寺石は眼鏡をかけ直した。「未知の言語を発音する際の口の動きという説と、古代ローマの詩人マルクス・パクウィウスに由来するという説がある。後者は本人が広めた説だ。」
「本人が広めたのか。」
「満更でもない顔をしていた。」
第三章 シンヤ皇帝
数日後の昼休み、部室に琢磨が一人でいた。
机の上に手紙が一枚あった。白井が入ってきた時、琢磨はそれを裏返した。
「何だ。」白井が聞いた。
「家からだ。」琢磨は答えた。それ以上は言わなかった。
白井は鞄を置き、弁当を出した。琢磨も弁当を出した。二人はしばらく黙って食った。
「弟が模試で全国一位を取ったらしい。」
琢磨が言った。白井は箸を止めなかった。
「文理ともにか。」
「そうだ。」
「ほう。」
「涼しい顔をした男でな。」琢磨は弁当の蓋を閉めた。「顔も整っている。親の受けも良い。我が家はシンヤ皇帝の独裁下にある。」
白井はその言葉を受け止め、咀嚼し、飲み込んだ。
「貴様は線文字βを読む。」
「読む。」
「シンヤ皇帝は読むか。」
琢磨は少し間を置いた。
「読まない。」
「では貴様の勝ちだ。」
琢磨は何も言わなかった。手紙を引き出しに入れ、弁当の蓋を開け直した。
第四章 理科の答案
翌週、理科の答案が返ってきた。
琢磨の点数は白井には見えなかったが、琢磨が答案を素早く鞄に収めた速度で、おおよその見当はついた。
「パクパー。」
「何だ。」
「NaClは食塩だ。」
「知っている。」
「本当か。」
「……今は知っている。」
琢磨は鞄の留め金を閉めた。その動作は几帳面だった。
廊下に出ると、彼は何事もなかったように歩き始めた。その背中は大きく、浅黒く、厚みがあった。どこか遠い場所から来た人間のような歩き方をしていた。白井はその後ろについて歩いた。




