第十三話 鉄路の賢人と電撃の恋人――あるいは蛮座(ばんざ)の肖像
第一章 鞄の中の矛盾
蛮座の鞄は、いつも重かった。
白井が隣に座るたびに、棚に載せる時の音で分かった。他の生徒のそれより明らかに密度が違う。あれほどの重量を毎日運んでいれば、三年で脊椎が曲がるのではないかと白井は思ったが、蛮座の姿勢は常に直立していた。
ある朝の電車の中で、蛮座が鞄を開けた。
白井は横から覗き込んだ。
最上段に、『うる星やつら』の文庫が二冊。その下に、分厚い洋書が一冊、背表紙のドイツ語が窮屈そうに収まっていた。さらにその下に、路線図を折り畳んだものが几帳面に重ねてある。
「……蛮座よ。」
「何だ。」
「その洋書は何だ。」
蛮座は鞄から取り出し、白井に表紙を見せた。マックス・ヴェーバーの名があった。
「プロテスタンティズムの倫理と、資本主義の精神の関係を論じた著作だ。」
「それと、その下の漫画は。」
「ラムちゃんだ。」
蛮座は何も矛盾を感じていない顔をしていた。白井も、それ以上は何も言わなかった。電車は次の駅に着き、ドアが開いた。
第二章 ダイヤの神学
放課後、蛮座が路線図を広げていた。
部室の机の上に、折り畳んだ紙を丁寧に伸ばし、路線の交差点に指を当て、何かを確認している。
白井は対面に座り、文庫を読んでいたが、蛮座の指の動きが気になって顔を上げた。
「何を調べている。」
「ドイツのライヒスバーン、帝国鉄道の運行ダイヤだ。」蛮座は視線を落としたまま答えた。「一八七一年の統一以降、プロイセンを中心とした路線網の拡張が、いかに分裂した諸邦を一つの経済圏として接合したか。鉄道とは単なる輸送手段ではない。時間と空間を合理性で繋ぎ止める、国家意志の結晶だ。」
「ほう。」
「見ろ、この幹線の走り方を。」蛮座が指でベルリンからの放射状の線を辿る。「軍事的な合理性と経済的な合理性が完全に一致している。これほど美しい設計は、後にも先にもない。」
白井はしばらく路線図を見た。線が放射状に走り、節点で交差し、網目を作っている。確かに整然としていた。
「……蛮座よ。」
「何だ。」
「ラムちゃんはどこに収まっているのだ、その体系の中で。」
蛮座の手が止まった。
一拍おいて、蛮座は路線図から顔を上げた。眼鏡の奥の目が、初めて白井の顔を正面から見た。
「諸星あたるの絶えざる浮気性は、未成熟な自由市場における情報の非対称性が招くモラル・ハザードの象徴だ。」
「……ほう。」
「対してラムの放つ電撃は、市場の失敗を即座に是正し、均衡状態へと強制回帰させる、超法規的な介入の隠喩だ。」
白井はしばらく黙った。
「……それは、本気で言っているのか。」
「当然だ。」
蛮座は路線図に視線を戻した。指が再び動き始めた。
第三章 電撃の問題
その日の夜、蛮座の部屋では『うる星やつら』の再放送が始まっていた。
蛮座は机の前に座り、ヴェーバーの洋書を開いていた。テレビの音は聞こえていた。集中の妨げにはなっていなかった。
ラムの声が聞こえた瞬間だけ、ページを繰る手が止まった。
止まって、また動いた。
その繰り返しが、番組の三十分の間、何度か続いた。
エンドロールが流れると、蛮座は洋書を閉じた。
どこまで読んだか、定かではなかった。
第四章 翌朝の電車
翌朝、また同じ電車の中で、蛮座は鞄を開けた。
白井は横から覗き込んだ。
構成は昨日と同じだった。洋書、漫画、路線図。順番も変わっていなかった。
白井は何も言わなかった。蛮座も何も言わなかった。
電車は線路の上を走った。窓の外の風景が流れ、また次の駅に着いた。




