第十二話 隻眼の神託と断崖の行者――あるいはマスターKの肖像
第一章 断崖の人影
昼休みの鐘が鳴り、校庭に生徒が散らばった頃、白井紫影は弁当を抱えて裏手へ回った。
食堂の喧騒を避け、渡り廊下の端で飯を食う習慣が、この学校に移ってから身についていた。
裏手の突き当りは、学園の高台を形作る地形の際で終わっている。フェンスがあり、その向こうは垂直に近い法面が続く。生徒たちは「嘆きの壁」と呼んでいた。何かから落ちた者がいたわけではない。ただその陰鬱な垂直感が、そう呼ばせるのだった。
白井がフェンスの手前に腰を下ろしかけた瞬間、視界の端に何かが映った。
動くものがあった。
法面の中腹、高さにして十メートルを超える岩肌に、人間がいた。
命綱はない。ロープもない。チョークの白も見えない。素手と運動靴だけで、岩の窪みを指先で捉え、重力の存在を忘れたかのような速度で、するすると上方へ移動していた。
白井は弁当を膝に置いたまま、立てなかった。
頂上のフェンスから、その人影が顔を出した。
マスターKだった。
「……Kよ。」白井はようやく声を出した。「貴様、そこで何をしておる。」
Kは息を切らしていなかった。フェンスを越え、白井の隣に立ち、空を見上げた。
「精霊が呼んでいた。中腹の岩陰に、風の言葉が最も純粋に集まる場所がある。」
「……それだけか。」
「それだけだ。」
白井は弁当を開いた。Kも弁当を取り出した。二人はしばらく何も言わなかった。
第二章 連絡ノートの神託
部室の連絡ノートは、いつ頃からか、Kの管轄となっていた。
連絡事項は几帳面に記録されている。しかしその余白が問題だった。余白のほぼすべてに、Kの筆による小さなイラストが埋まっていた。
描かれるのは常に少女だった。三等身にデフォルメされた、愛らしい輪郭の少女。フリルの衣装、小さな手足、丸みのある頭部。白井が好む「あどけなさ」の文法を、正確に踏まえた造形だった。
しかしその顔の中央、鼻と口と両の眉がある、ごく普通の配置の中に、目だけが一つしかなかった。しかもその一つが、顔の面積の三分の一を占めるほど巨大だった。
奇妙なことに、破綻していなかった。
鼻の高さ、口の横幅、眉の角度——それぞれが単眼の巨大さに対して絶妙に調整されており、全体として「成立した顔」として着地していた。異形のはずが、見慣れるほどに愛らしく見えてくる。初めてノートを開いた者は必ず二度見した。そして三度目には、もう違和感を覚えなくなっていた。
Kは予言を添える習慣があった。
『来たるべき火曜日、食堂のカレーは辛さを増すであろう。備えよ。』——隣で単眼の少女がスプーンを持ち、汗をかいている。
『西の校舎より、魔が来る。生活指導の足音に耳を澄ませ。』——少女が聴診器を床に当てている。
部員たちは次第にこの絵を待つようになった。予言の精度は問わなかった。絵が、そこにある事実で十分だった。
第三章 夕暮れの部室
ある夕刻、白井は一人で部室に残った。
鍵の返却を忘れていた。それだけの理由だったが、ノートが目に入り、開いた。
Kのページが続いていた。
白井は立ったまま、一枚ずつ見た。単眼の少女が、ページごとに異なる場面にいる。机の前に座っている。窓の外を見ている。膝を抱えて眠っている。
視線が止まった。
止まったまま、次のページに移れなかった。
(……おかしい。)
白井は自問した。
彼の美学は揺るぎない体系を持っていた。五体満足の少女、あどけない表情、無垢な動作——これが彼の定義する「至高」だった。異形はその外側にある。論理的に、そのはずだった。
(ならば何故、この顔から目が離せないのか。)
単眼はこちらを見ていた。しかしその周囲には、小さな鼻があり、わずかに開いた口があり、細い眉があった。それらが単眼の巨大さを受け止め、顔として成立させていた。バランスの妙、とでも言うべきものが、そこにあった。
二つの目を持つ顔は、どちらかの目が主体となり、視線に必ず揺らぎが生じる。しかしこの顔は一つしかない。揺らぎようがない。どこを向いても、それはこちらだけを向いている。そして鼻と口がその視線を支え、表情として完結させていた。
白井の指先がページの端に触れた。
「……白井。」
背後から声がした。
振り返ると、窓枠にKが腰かけていた。いつからいたか分からなかった。窓は開いていたが、廊下からではない。外側から入った音がした記憶はなかった。
Kは白井の手元を見ていた。どこまで見ていたかは分からない。
「精霊が言っている。」Kは静かに言った。「扉は、叩けば開かれる、と。」
白井はノートを閉じた。
閉じてから、机の上に置いた。置いてから、鍵を取った。
「……その神託は、解釈に時間を要するようだ。」
それだけ言って、部室を出た。
廊下を歩きながら、白井は自分の指先が、まだページの感触を覚えていることに気づいた。
彼は足を速めた。




