第十一話 空手道という名の符牒――あるいは四人の美学論争
確定申告~年度末~と怒涛の忙しさが続いて、しばらく更新が滞ってしまいました。
申し訳ありません。
とりあえず、改稿進めています。
第一章 弛緩の午後
六月の陽が、部室の窓ガラスを鈍く照らしていた。
校庭では野球部の掛け声が遠く聞こえ、廊下には帰宅する生徒たちの靴音が間欠泉のように湧き上がっては消えていく。
部室の内側だけが、その喧騒から切り離されていた。
白井は背もたれに首を預け、眼球だけを動かして天井の木目を数えている。寺石は配線の剥き出しになった回路基板を両手で抱え、虫眼鏡を使って何かを確認しつつ、指先で端子を一本ずつ弾いた。隻眼の鷹はクロッキー帳を開いたまま固まり、ペンを持つ手が宙に浮いている。マスターKは胡坐をかいて眼を閉じ、口だけが微かに動いていた。
誰も口をきかなかった。
時計の秒針が、不釣り合いに大きな音を立てていた。
第二章 符牒の発動
「……今日は。」
最初に口を開いたのは誰だったか、後に四人とも記憶が一致しなかった。ただ、その言葉が落ちた瞬間、部室の空気が別のものに入れ替わったことだけは、全員の体が知っていた。
「『月刊空手道』の発売日だ。」
白井の首が、油の切れた機械のようにゆっくりと起き上がった。眼が開く。虹彩が収縮する。
寺石の手が止まった。虫眼鏡が、音もなく基板の上に置かれる。
鷹のペンが、帳面の端に短い線を一本引いて止まった。
Kの唇の動きが途絶えた。
四人の間に言葉はなかった。鞄が引き寄せられ、椅子が引かれ、それぞれが立ち上がる。その一連の動作は、示し合わせたわけでも、号令があったわけでもない。ただ、同じ引力に引かれるように、ほぼ同時に完結した。
第三章 潜入行軍
校門を出た四人は、最寄りの書店には向かわなかった。
寺石が先頭に立ち、住宅街の裏道を選んで歩く。鷹が続き、白井、Kの順に連なった。隊列の間隔は一定に保たれ、誰もが自然に口を閉じていた。
目指すのは、三駅先の繁華街にある大型書店である。
白井は歩きながら、その理由を改めて脳裏で反芻した。馴染みの書店では顔を覚えられる。同じ学校の生徒に遭遇する可能性がある。何より、目的の棚に向かう経路が短すぎて、動線から行先が読まれる。大型書店であれば、文芸書のコーナーを迂回し、武術・スポーツの棚を通過し、それから奥へ進むという、意図を消した経路が取れる。
三十分後、書店の自動ドアが開いた。
四人は散開した。各自が別の棚を起点とし、ゆっくりと、しかし確実に、店の奥へと向かっていく。
武術・スポーツのコーナー。
平積みされた『月刊空手道』の表紙が、目の端をかすめた。白井はそれを一瞥し、歩みを緩めることなく通り過ぎた。
その先に、暖簾があった。
第四章 戦利品の検分
四冊が、部室の中央の机に並べられた。
発売直後の印刷インクの匂いが、電子部品の酸化した臭気と混ざり合って漂う。
『レモンピープル』。
白井が最初のページを開いた。
しばらく、沈黙が続いた。それは空虚な沈黙ではない。それぞれが、各自の審美の回路を通じて、紙面の情報を処理している時間だった。
「……見よ。」
白井が、一つのコマを指で示した。少女がただ転ぶだけの場面であった。
「大腿部から足首にかけてのこの線だ。これは人体の模写ではない。」
彼は一拍おいた。
「円相だ。」
鷹が顔を上げた。眼帯の下の輪郭が、わずかに険しくなる。
「紫影。貴様は形に拘泥しすぎる。」
鷹は別のページを開き、一点を指した。少女の瞳の中に描かれた、三つのハイライトの配置である。
「これを見ろ。この三点の位置関係。光の反射などではない。銀河系の配置図だ。我々は今、漫画を読んでいるのではない。星空を見ている。」
「二人とも情緒に流れすぎだ。」
寺石が定規を取り出した。コマの縦横比を計測し、ノートに数字を書き留める。
「今号の白眉はこのSF短編にある。」彼はページを探し、一話を開いた。「ここで提示されているのは、ロリータ・コンプレックスを動力源とする永久機関の概念だ。少女への志向をエネルギーに変換し、エントロピーの増大を防ぐ。この理論は、荒塩衆道会の教義と現代物理学を架橋するミッシングリンクとなり得る。これは論文だ。」
最後にKが重い息を吐き、天井を仰いだ。
「精霊たちが……騒いでいる。」
彼は前衛的な、解読の困難な一篇を開いた。描線の乱れが激しく、構図の意図が判然としない。
「この乱れは、作者の精神が高次元の存在に接触した痕跡だ。この少女は警告している。来たるべき破局に備えよ、と。これは予言書だ。」
「円相!」「銀河系!」「論文!」「予言書!」
四つの声が重なり、それぞれが相手の言葉を聞かず、しかし全員が完全に満足していた。
第五章 正論の敗北(訂正版)
部室の隅で、後輩の上松がその光景を眺めていた。
入部してまだ日の浅い彼は、先輩たちの議論を理解しようと、何度かページを覗き込んだ。そのたびに、なぜこれが「円相」であり「銀河系」であり「論文」であり「予言書」なのか、論理の接続部分が見つからなかった。
しかし、四人の声の熱量だけは、疑いようなく本物だった。
上松は、一度だけ口を開いた。
「……先輩たち。それ、ただのエロ本ですよね。」
誰も聞いていなかった。
議論の波は、彼の言葉が生まれる前からすでに次の岸へ向かっており、正論は波に遭遇することなく、部室の壁に吸い込まれて消えた。
上松は口を閉じ、膝の上に手を置き、先輩たちの横顔を順番に見た。
本気だった。四人とも、疑いなく本気だった。




