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紫影と七変伝  作者: ドクター・減る


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第十六話 隻眼の神殿と斜線の幻影――あるいは鷹(たか)の美学とコールサインの記号論



## 序章 隻眼の神殿


六月の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。


 部室には鷹一人が残っていた。


 机の上にスケッチブックを広げ、Hの鉛筆を指の腹で軽く弄びながら、紙面の白さを見ていた。白さは空白ではない。これから現れるものの重さを、既に含んでいる空間だ。鷹はいつもそう思う。


 鉛筆の先が、紙に触れた。


 線が生まれた。弧を描き、折れ、また弧に戻る。それは頭部の輪郭であった。丸みを帯びた、しかし確固とした輪郭。鷹の指は迷わなかった。この線を何百回引いたか、もはや数えることに意味はない。


 ミンキーモモだった。


 鷹が愛する少女は、変身する。魔法の力を持ち、人の夢を助けるために現世に遣わされた精霊の姫。しかし変身した姿においても、しない姿においても、彼女は常にただ一点――その瞬間の「モモ」として完結している。二つの状態を持ちながら、どの一瞬においても揺らがない。


 (二つの目を持つ者は、常に揺れる。)


 鷹は右目の眼帯に、無意識に指を触れた。


 右の視界はない。左の一点だけが、世界を捉える。視線に迷いが生まれる余地がない――向いている方向が、そのまま全てだ。最初は不自由と感じた。今は違う。一点に絞られた視線は、純化される。雑味が消える。見るべきものだけが、見えるようになる。


 ミンキーモモの瞳に、鷹は小さな光の点を入れた。


 一点。


 それだけで、顔が生きる。


 (この子は知っている。一点で見ることの意味を。)


 廊下から足音が近づいた。


 鷹はスケッチブックを閉じた。手に持っていたBOØWYのLPが、机の端から落ちそうになるのを、膝で受け止めた。寄り道のついでに買った盤だった。ジャケットの黒地に白いフォント――このコントラストは確かに美しい。しかし今日の本命はそちらではなかった。


 扉が開き、寺石が入ってきた。


---


## 第一章 Φ(ファイ)のごときゼロ


 部室の空気は、いつになく華やいでいた。


 鷹が、一枚のLPレコードを小脇に抱え、意気揚々と現れたからである――と、寺石の目には映った。


 黒一色のジャケットに、白く鋭利なフォントで刻まれた文字。それは、当時の若者たちを熱狂の渦に叩き込んでいた伝説のロックバンド、『BOØWY』のアルバムであった。


 「……見ろ、このジャケットデザインを。黒と白のコントラスト、そしてこのタイポグラフィ。完璧な美学だ。」


 鷹はうっとりと盤面を撫でた。


 その時、回路図と格闘していた寺石が、ふと顔を上げ、鷹の手元を凝視した。


 眼鏡の奥の瞳が、一点に釘付けになる。


 それは、バンド名の中央に位置する「Ø」の文字――すなわち、斜線の入ったゼロであった。


 寺石の脳内検索エンジンが、激しく回転する。


 (丸に斜線……。これは数学記号の空集合か? 否。この文脈においては、間違いなく通信用語における『ゼロ』の表記だ。オー(O)とゼロ(0)を明確に区別するための、無線家の作法!)


 寺石は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


 「おい、鷹よ。珍しいな。貴様が無線ハムの世界に興味を持つとは。」


---


## 第二章 致命的なる周波数のズレ


 「え? ハム?」


 鷹は一瞬きょとんとしたが、以前の「洋楽誤読事件」の教訓から、これは寺石流の高度な比喩表現なのだろうと解釈した。


 「ああ……まあな。このバンドの出す音は、確かに電波に乗って世界を侵食するような勢いがあるからな。」


 「うむ。心がけが良い。」


 寺石はレコードジャケットを指差した。


 「それにしても、鷹よ。このOMオーエムさんのQSLカードは、随分と意匠が凝らしてあって面白いな。写真集並みの装丁ではないか。」


 「キューエスエル……?」


 鷹は首を傾げた。(アルバムのことを、業界用語でそう呼ぶのか? クオリティ・サウンド・レーベルとかの略か?)


 「ああ、デザインには凝ってるよ。彼らはビジュアルも売りの一つだからな。」


 寺石は、文字列『BOØWY』を、無線局の識別信号コールサインとして解読し始めていた。


 「ふむ……。『B』から始まるプリフィックス(接頭辞)。ということは、この局長さんは台湾(中華民国)、あるいは中国本土の方なのか?」


 「は? 台湾?」


 鷹は目をぱちくりさせた。「いや、ボーカルのヒムロックも布袋も、バリバリの日本人だよ。群馬出身だ。」


 寺石の眉間に皺が寄る。


 「日本人……だと? 日本人が『B』のコールサインを持つということは、現地からの運用か、あるいはDXペディション(遠征)か……。しかし、妙だな。」


---


## 第三章 エリア0の謎とプロパガンダ


 寺石の指が、文字列の「Ø(ゼロ)」を指し示した。


 「見ろ、このエリアナンバーを。『Ø(ゼロ)』だ。日本国内(JA)であれば、エリア0は信越地方(長野・新潟)を指すが、プリフィックスが『B』でエリアが『0』……。これは通常のアマチュア局ではない。」


 寺石の声が、陰謀論めいた熱を帯びる。


 「場所を特定できない移動局か、あるいは政府関係の特殊なスペシャル・ステーションなのか? やはり、政治的配慮が働いているのか?」


 鷹は、寺石がバンドの「カリスマ性」や「社会への影響力」について語っているのだと好意的に誤解した。


 「まあ、確かに特別扱いはされてるよ。テレビ局もラジオ局も、彼らの動向には注目してるし、解散宣言なんて社会現象になったくらいだからな。政治をも動かすカリスマと言えなくもない。」


 「なるほど!」


 寺石は膝を打った。


 「カリスマ性が高いということは、即ちプロパガンダ(政治宣伝)に最適だということだ! 親日の台湾、あるいは大陸の深部において、日本人が強力な出力で放送(運用)を行う……その意義は地政学的にも極めて大きい!」


 「え、ああ……うん?」


 鷹は、話のスケールが急激に国家レベルに拡大したことに困惑しつつも、相槌を打つ。


 「ま、まあ、台湾でも人気あるかもしれないし、アジアツアーとか……やってたかな?」


---


## 第四章 ウィスキー・ヤンキーの孤独


 寺石は最後に、サフィックス(接尾辞)である「WY」に注目した。


 「そして、このサフィックス。『WY』……フォネティックコードで言えば『ウィスキー・ヤンキー』か。酔いどれのアメリカ野郎とは、随分と自虐的でパンクなネーミングセンスだ。嫌いではない。」


 「……そこは英語読みで『ボウイ』って読むんだけどな。」


 「ほう! コールサインを愛称のように読ませるとは、なんと洒脱な! やはり只者ではないな、このOMは!」


 二人の会話は、ロックバンドのアルバムと、架空の無線局の交信記録という、決して交わらぬ二本のレールの上を、猛スピードで並走していた。


 部室に流れる『マリオネット』のリズムに合わせて、寺石はモールス信号を打つ真似をし、鷹はエアギターをかき鳴らす。


 その光景は、側から見れば奇妙なジャムセッションのようであり、その実、絶望的なディスコミュニケーションの極致であった。


 鷹はエアギターをかき鳴らしながら、不意に呟いた。


 「……この疾走感は、ミンキーモモの第三話に匹敵する。」


 寺石の手が、一瞬だけ止まった。しかし次の拍にはもう動いていた。


---


## 【寺石博士の無線通信講座:なぜ彼は勘違いしたのか?】


読者諸兄の為に、寺石の脳内で起きた回路のショートを解説しよう。


**1. 斜線付きゼロ(Ø)の魔力**


 アマチュア無線やプログラミングの世界では、アルファベットの「Oオー」と数字の「0(ゼロ)」の混同は、致命的な情報の伝達ミスを招く。故に、数字のゼロには斜線を入れて「スラッシュ・ゼロ」と表記する慣習がある。


 寺石は、ロックバンドがお洒落で入れた「Ø」を見た瞬間、パブロフの犬の如く「これは無線家の書いた文字だ!」と認識してしまったのである。


**2. コールサインの構造(Prefix / Area / Suffix)**


 無線局の識別信号は、世界共通のルールで決まっている。


 【プリフィックス(国籍)】+【エリアナンバー(地域)】+【サフィックス(個人の識別)】


 (例:JA1YAA=日本・関東・某無線部)


 寺石は『BOØWY』を以下のように分解した。


- **BOプリフィックス:** 「B」から始まるコールサインは中国に割り当てられている。寺石の脳内では「B=大陸方面」という図式が成立した。

- **Ø(エリアナンバー):** 数字の0。

- **WYサフィックス:** フォネティックコードでWhiskey・Yankee。


**3. 専門用語の誤爆**


- **OM(Old Man):** 無線用語で「男性オペレーター」の敬称。バンドメンバーを指してこう呼んだ。

- **QSLカード:** 無線家同士が交信後に交換する証明カード。寺石はアルバムジャケットをこれと誤認した。


 即ち、寺石にとって『BOØWY』とは、「中国(あるいは台湾)のエリア0から、ウィスキー・ヤンキーという名の日本人が発信している、謎の秘密無線局」だったのである!


---


## 終章 斜線の先に


 寺石が帰った後、部室に静寂が戻った。


 レコードはまだ回っていた。針が溝を辿る微かな摩擦音だけが、部屋に残っていた。


 鷹はスケッチブックを開いた。


 BOØWYのジャケットを、スケッチブックの傍に立てかけた。黒地。白字。Øの斜線。


 鷹は見た。斜線を。


 それから鉛筆を取り、今朝の途中のミンキーモモのページを開いた。午前の光の中で入れかけた、瞳の中の一点。まだそこにあった。


 鷹は、その光の点の周囲を、ごく細い線で囲った。


 Øではない。


 閉じた円に、斜線は入れない。これは開かれた目だ。見ているのだから。


 針が最後の溝を辿り、レコードが終わった。


 盤が空回りする音だけが、しばらく続いた。

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