粉雪[9]
麻衣の感情が爆発してしまいます。
どうか、優しく受け止めてあげて。
結局私はその日の夕方も、気持ちがまとまらないままトボトボと歩き、ベルグのドアを押し開けた。
「いらっしゃいませ」
今日も店内に響くのは、藤野さんのハキハキした声。
「山岳会を辞めます」
その短い言葉が言えない。本心を伝えられないまま、ただただ時間を無駄にしてしまっている。
テーブルには展示品のソロ用グリル。手を触れると、意味もなくバラしてみたり、また組み立てたり。
その姿は私以外の全ての人にとって、所謂“不思議ちゃん”に違いなく、ある人は汚物でも見たかのような顰めっ面だったり、またある人は小馬鹿にしたような視線を浴びせてくる。
そんな汚物を少し離れた位置から注視する人。
「岡崎…亮さん」
彼は無表情で私の呼びかけに頷くと、怖いもの見たさのような仕草で足音もたてずに近寄って来る。
―どうしよう。
「田上…麻衣さんですね」
「は、はい…」
「その節はどうも…」
「ほ、本当に…、本当にすみませんでした」
「は?」
亮さんは何も知らない?
私の謝罪の言葉の意味を理解出来ずにいるようだ。
「歩果の事…ですか?」
声を出す事さえ苦しいと感じる私には、亮さんの顔など見る事も出来ず。
「彼奴ね、僕らより早く帰ってたんで…ビックリしちゃいましたよ。何でも姉貴から、帰って来いなんて言われたんですって? 慌てて夜行バスに飛び乗ったって…はは、田上さんもビックリしたでしょ?」
話が少しすり替えられている。彼女なりの、心配かけないようにとの配慮が感じられる。
だけど私、こんな事考える余裕もあるはずなのに、亮さんとの会話を成立させる事が出来ないでいる。
ふと、宮地さんから聞かされた事実が脳裏をよぎった。
「亮さんは…、亮さんは、何で登山なんか…」
―え? 何を言おうとしてるの? 私。
そこまで言って、言葉を止めた。これ以上言えば、登山家に対してあり得ないほど失礼な質問になる。
だけど、ここまで言えばもう、全てを言ったも同然。そして亮さんは、この失礼な質問に苦笑いして静かに答えた。
「……そうだね。明確な理由なんて、ないかもしれないな」
私の失礼は、止められなくなった。
「理由もなく登るんですか? それで誰か幸せになりますか?」
亮さんの眉が下がった。めちゃくちゃに困ってるんだと思う。
「野球とかサッカーみたいなスポーツ程華やかじゃないかもしれないけど、登山もスポーツなんだよ。僕らはスポーツ選手のつもりでやってる。もちろんそれは、自分自身への挑戦みたいなものだ」
「私も高校生の頃まで陸上やってました。短距離。だけど、足首を骨折して辞めたんです」
ベルグに通い始め、山岳会に入って、何人もの登山家を見てきた。その人達と自分を重ねてみたりもした。
亮さんがスポーツだと言った事は、私がこの失礼極まりない話を続けるのに好都合だった。
「スポーツだって仰るのなら、私みたいに怪我して山に登れなくなったら、その先にある人生を、どう過ごせばいいとお考えですか? 私、陸上競技に打ち込んで打ち込んで、それでも結果を出せずに大怪我して引退して、不自由な体を抱えて思うように働く事も出来ず、今も苦労している方、知ってます。亮さんは、険しい山に登頂した時、ご自身以外の誰かが幸せになりましたか? 落石に巻き込まれそうになった時、誰かを幸せに出来ている自分が居ましたか?」
それでも亮さんは、そしてこの様子を見守る登山家の市川さんや山崎さんも、とても穏やかだ。
一体何故?
こんな失礼な馬鹿者を、怒鳴りつけてよ。
「登山家さんって、山で死ねるなら本望とか言うんですか? じゃあ、尚哉さんが亡くなったのは本望だと思うんですか? 亮さんは…皆さんは? 尚哉さんは山で命を落として、歩果を悲しみのドン底に落としてしまいましたよね? それでも皆さんは!」
「いい加減にしろ!!」
荒れ狂う私を、突如チンロックで締め上げ、黙らせた人。
「あ、姉貴…」
「佳代ちゃん…」
「この馬鹿タレがっ!」
何で宮地さんが? 予感がしたとでも?
私、ユウさんに「ベルグに行く」って言ったわ。宮地さんには「歩果に謝りたい」と。
宮地さんは、ゆっくり手を離した。
「人の人生だろ。アンタがとやかく言えるもんじゃないんだよ」
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次回「粉雪[10]」
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