粉雪[6]
夕方、私はベルグに向かった。
スタッフの皆さんや、山岳会の人達、そしてユウさんにも申し訳ないんだけど、今の私にはもう、山岳会に所属する意味がなくなっている。
もうやめよう…。そんな思いが、心の中で密かに生まれていた。
ただ…、
ベルグに行って歩果に会ったら、私はどんな顔をすればいいんだろう。何て声をかければいいんだろう。そんな大きな不安が、頭の中で回り続けている。
周りの山々にはまだ青葉が残る中、駅周辺の桜の葉はもう色付き始めている。
碓氷峠との季節感の違いを実感しながら、力なく一歩一歩足を進める。駅からお店って、こんなに遠かったのかしら。
「はあ〜…」
大きなため息。駄目だ、これでは。
今度は大きく深呼吸して、ゆっくりドアに近付く。やっぱりこのドアは重い。
「いらっしゃいませ!」
ドが付くほどの緊張の中、ドアを開けてくれた藤野さんの笑顔を見て、救われたような気持ちになった。
この人は、優しさに溢れている。自然を愛するが故なのだろうか。
「この間は…ありがとうございました」
ありきたりな言葉しか出て来ない私に、彼は笑顔はそのままに、穏やかに応えてくれた。
「いやぁ、そんな。ご一緒出来る、いい機会でしたよ」
ブレない。そう例えるのが合ってる気がする。まるでAIの音声のようにはっきりと、詰まったり吃ったりする事もなく。だけどそこに、人間らしい温かみをも含んでいる。
藤野さんに先導され、私はまた奥へと進んで行った。そして、いつものあの高級アウトドアチェアに体を預けた。
いつもならスタッフのみんなに見守られ、この椅子に包み込まれるようにリラックス出来るこの場所。
だけど、今日は全然落ち着かない。落ち着ける訳がない。
―もし歩果と目が合ったら…。
会いたい。でも、会うのが怖い。喧嘩はした事あるけど、まさか無言のまま去って行くなんて。
「朝比奈さんですか?」
「あっ、い、いいえ…」
「朝比奈さんね、体調崩したらしくて」
「はぁ…。休んでるんですね」
会えない辛さ。だけど今は、辛さの中にも内心ホッとしている。
お店に居る。そう思ったから、心の準備は怠っていない。話す言葉もしっかりシミュレーションして来たつもりだ。
それでもやっぱり、会うのが怖い。
失いたくない人だからこそ、こんな複雑な気持ちになってしまう。
「風邪か何かかなぁ」
誤魔化すようにそう呟く私に言葉を返す時、藤野さんは少し呆れ顔になった。
「朝比奈さんね、結構衝動的に休む事あるんですよ。楽しかったあとの現実逃避行動かなぁって思ったり。あははは」
「あ、あ、そうなんです…ね」
衝動的とは、宮地さんも言っていた。
急に学校へ行きたくなくなって、違う電車に乗って、お金もないのに終点まで行ってしまったとか。
でもそれ、分かる気がするのは何故だろう。
そして、自分の話を持って来たはずなのに、また歩果の事ばかり考えている自分も、あまり安定した気質とは思えない。
言葉が出ない私を気遣ってか、藤野さんは先日の妙義山について話し始めた。
駄目だわ。一生懸命話してくれるのに、私ったら上の空。
きっと、あの岩峰をよじ登る恐怖とか、登頂した瞬間の達成感や爽快感なんかを話してくれてるんだと思う。
なのに、もう山への興味も薄れてしまった自分が居る。
熱く語る貴重な経験だって、ごめんなさい。空回りしてるの。
「すみません。また来ます」
「五月蠅かったかな? ごめんなさい」
「い、いえ、そうじゃなくて、歩果の体調が気がかりで…」
本当は五月蠅かった。だけどそんな気持ちになる事自体、とても失礼よね。
藤野さんに見送られ、私は店を出た。
駅とは反対方向に歩いてみた。何をどうすればいいのか判断もつかず、向かう先をこのポンコツな足に委ねてみた。
日が暮れると、一気に気温が下がり始める。
肌寒さは、歩いているうちに感じなくなるだろう。いいえ、いっその事凍えてしまえばいいんだ。
それでも歩果の心の傷の深さに比べたら、私の傷なんて薄い紙で切った程度。
薄い紙で切ったら…、
傷は浅くても…、
とても痛い。
うーん、ちょっと前の麻衣なら、藤野さんの話に笑顔で耳を傾けられたんじゃないかな。
気持ちが沈む時、好きな事も嫌いになってしまう。
私自身は、最後のフレーズがすごく気に入ってます。
アクセスありがとうございます。
次回「粉雪[7]」
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