第5話:再調査
机の上のモニターに、あの路地の写真を並べている。
一枚目は軒の出。二枚目は雨樋の継ぎ手。三枚目は、黒ずんだ板壁の二階部分で、そこがどうにも引っかかっていた。
「……二階が通りに向かって張り出してる」
一階の壁より、二階の床が三十センチほど前に出ている。それを下から支えているのは、柱の先から斜めに突き出した角の丸い木の腕だ。写真を拡大するとら腕木の先端に手ぬぐいを巻いたみたいな溝の彫りまで見える。
出桁造り。名前は知っていた。ただ実物をこの角度で、これだけ状態の良いまま見たのは初めてだった。
問題は、写真だけでは寸法が取れないことだ。腕木の太さと間隔、出の長さ、柱との納まり。それがわからないと、この家がどうやって二階の重さを持っているのか、図面に起こせない。
図面に起こせないものを、私は、どうしても放っておけない。
「……もう一回、行くしかない」
そう口に出した時点で、答えは決まっていた。
階段を降りると玄関の下駄箱の上で、卵形のロボがぱちりと目を開いた。
『リヴィ様。吸入器、ありますか?』
「ある」
パーカーのポケットを叩いてみせる。モチモノは、ピ、と短く鳴いて、それきり黙った。約束どおり、一回だけ。位置情報の記録もなし。その潔さが、ちょっとだけ気に入っている。
「リヴィ、どこ行くの」
リビングから、リアムが首だけ出した。ロティは歌の練習でスタジオへ行っていて、家にはいない。
「この前の路地。構造の再調査」
「それ世間一般では、再訪って言うんだよ」
「調査」
「迷子の」
「違う。今回は迷わない」
モバイルバッテリーとスケッチブックと鉛筆を、リュックに入れた。地図は昨夜のうちにオフライン保存してある。電波が零本になっても、青い点は消えない。前回の私は、準備が足りなかった。同じ失敗は、二度しない。
「……ちなみに、帰りのタクシー代は」
「ある」
一万円札は、きっちり三枚。
リアムは、深々とため息をついてから笑った。
「行ってらっしゃい。夕飯までに帰れよ」
「うん」
十月の終わりの空は高かった。
住宅街の金木犀は、盛りを過ぎて香りが少し薄くなっていた。道の端に小さな橙の花が吹きだまりになって溜まっている。
柴犬とおばさんには会わなかった。電柱の貼り紙は、『秋の清掃活動』から『年末の夜警のお知らせ』に変わっている。内容は、やはり完璧に頭に入った。
地図の青い点に従って、慎重に進む。例の場所で、スマホの電波表示が、すとんと零本になった。
「……戻ってきた」
目の前に、黒ずんだ板壁の路地が口を開けていた。
前回より少し嬉しくなったのは内緒だ。
お目当ての家は路地の中ほどにあった。
写真で見たとおり、二階が、一階より前に迫り出している。見上げると腕木が等間隔に、まるで手を差し伸べるみたいに並んでいた。
私は路地の向かいの塀の際に腰を下ろして、スケッチブックを開いた。
まず柱の位置を決める。それから、腕木の出を、鉛筆を目の前にかざして測る。親指と鉛筆の長さで、だいたいの比を取る。
「間隔、九十センチ。いや、半間より少し狭い」
鉛筆の走る音が、静かな路地に、さらさらと響く。
腕木は柱から斜めに伸びて、桁を受けている。その下に小さな持ち送りがもう一本。つまり二段構え。どうりで、二階が崩れずに残っているわけだ。
最初に気づいたのは猫だった。
塀の上に前回とは別の茶トラが座っていて、私の手元を、じっと見ている。
「見てもいいけど、動かないで」
猫は、あくびで返事をした。
三十分ほど、私は鉛筆を動かし続けた。顔も上げず、息をするのも忘れそうなくらい、没頭していた。
だから、その足音が近づいてきたときも、最初は、気にも留めなかった。
「福ちゃん! 福ちゃーん!」
甲高い声だった。
サンダルをつっかけたような、ぺたぺたという足音が、路地の向こうから転がるように走ってくる。私は鉛筆を止めて顔を上げた。
エプロン姿のおばさんが、息を切らして、こちらへ向かっていた。
見覚えのある顔だった。住宅街の電柱の前で、私を見て目を丸くした、あの柴犬のおばさんだ。
ただし今日は、手に何も持っていない。リードも、散歩袋も。ただ、空っぽの右手だけが、握ったり開いたりしている。
おばさんは、私の前で足を止めた。
私を見て、一瞬、固まった。
ほんの一瞬。「外国の人だ」という、いつもの反射が、その顔をかすめる。
「あ、あの、は、ハ……」
英語の準備をしかけた口が、そこで、ぐっと閉じた。
「……ねえ、お嬢さん!」
おばさんは、背に腹はかえられない、という顔で言った。
「そこに、茶色い犬、走っていかなかった!? 柴犬! このくらいの、丸っこい子!」
両手で柴犬の大きさを示す。その手が震えていた。
「首輪が、すっぽ抜けちゃったのよ。さっき、そこの角で猫に気を取られて、ぐいっと引っ張ったら、首輪だけ残して、ぴゅーって! うちの福、普段は、絶対に逃げたりしないのに」
早口だった。目がうるんでいる。
「どこ行ったか、ぜんぜん分からなくて。この辺、ほんとに道が入り組んでるでしょう。地元の私でも迷うくらいで。車にひかれたらどうしよう」
声がそこで——詰まった。
私は、スケッチブックを膝の上に置いた。
パニックには、ならなかった。
目の前の人が慌てているのを見ると、自分の頭は、かえって静かになる。それは昔からの癖だった。
「……いつ、逃げましたか」
「え?」
「福ちゃんが、逃げた時間」
「さ、さっき。十分、いえ、八分くらい前」
「どっちの方向に、走っていきましたか」
「あっち。そこの三軒向こうの角を右に」
おばさんは、路地の北側を指した。
私は立ち上がった。リュックを背負う。それから目を閉じて、頭の中に、三十分前に歩いた路地の全部を呼び出した。
この路地は直線ではない。
昭和初期の区画整理の名残で、家が斜めに並んで、道が少しずつ折れ曲がっている。三軒向こうの角を右に折れると、袋小路が一つ。その手前で左にまた細い道が分かれる。そこから先は、前回私が歩いた道だ。
そして、あの道の奥には。
「……階段」
「え?」
「どこにも通じていない階段が、あるんです。猫の昼寝場所になっている」
おばさんが、きょとんと私を見た。
私は、頭の中で変数を並べはじめた。
一つ。犬は、壁際に沿って進むことがある。福が向かったのも、障害物の少ない細い路地だった。そこには何か福を引き寄せるものがあったのかもしれない。
二つ。福は猫に気を取られていた。おばさんの話が確かなら、猫の存在が福の行動に関係していた可能性は高い。猫を追っていたのか。それとも、猫の姿を追いかけるうちに、路地へ入り込んだのか。
三つ。猫は危険を感じると高い場所や物陰に逃げ込むことがある。そして、あの路地で、あの猫がいつも好んでいた高い場所は――。
鼻を、すんと鳴らした。
風は北東から吹いている。さっきから、スケッチをしながら、頬に当たっていた。風下は、この路地の南西、つまり、袋小路の方角。
その風の中に、うっすらと焦げた脂の匂いが混じっている。
「……魚」
「え、さかな?」
「どこかの家で魚を焼いてます。風下は、あっち。猫と魚の匂いが重なるのは」
私は顔を上げた。
「あっちです。猫と魚の匂いがする場所」
指をさす。三軒向こうの角を右に折れた、さらに奥。
おばさんは、私の指の先と私の顔を交互に見た。
数秒の沈黙。
それから、ぎゅっと拳を握った。
「……行きましょう」
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