第6話:どこにも通じない階段
先に立って歩いたのは、私のほうだった。
足が勝手に動いた。前回迷子のふりをして歩いた道は、もう頭の中の地図になっている。三軒向こうの角を右へ。袋小路の手前で、左へ。板塀の隙間から、湯気と焼き魚の匂いが強くなる。
おばさんは私の後ろを、ぱたぱたとついてきた。
「あなた、この辺の子なの?」
「いえ。二回目です」
「二回目で、わかるの?」
「前に、ここを歩いたので」
それだけ答えて、あとは黙った。いつもなら、ここで会話は終わる。そういう人間だ。
けれど今回は、沈黙が不思議と苦しくなかった。
おばさんは、私の背中にただ必死でついてきている。話す余裕などないのだろう。私も話す必要がない。目的が同じだからだ。
(こういうのは、悪くない)
そう思った自分に少しだけ驚いた。
角を曲がるとあの階段が目の前に現れた。
石の段が、十段ほど。上がりきったところは、小さな踊り場になっていて、その先は板塀で行き止まりだ。前回私が上がって、猫の昼寝場所しかないことを確かめた、どこにも通じていない階段。
その、いちばん上。
茶色い丸い背中が、ぴくりとも動かずに立っていた。
「福ちゃん!」
おばさんの悲鳴が上がった。
私は、すっと手を出して、おばさんを制した。
「大きな声は、出さないで」
「でも」
「あの子、動けないんです。たぶん」
階段の上を、よく見る。
柴犬は踊り場の端に、四本脚を揃えて、まっすぐに立っていた。尻尾は、ぴんと巻き上がったまま。視線の先には塀の上に座った、白黒の猫。
猫も動かない。
犬と猫が、一メートルほどの距離を挟んで、完全に見つめ合っている。
しばらくの間、誰も動かなかった。
路地に、魚の焼ける匂いと、遠くの鳥の声だけが、流れていた。
「……猫に、追いついたはいいけど、どうしていいか、わからなくなったんだと思います」
「そんなことある?」
「犬には、そういうこともあります。追いかけているあいだは夢中だったのに、追いついた途端、立ち止まってしまう。追いかけることと、そのあとどうするかは、別の話ですから」
私は、一段ずつ、音を立てずに階段を上がった。
柴犬がちらりと、こちらを振り向く。
黒目がちの丸い目。眉の位置に淡い茶色の斑点。
その目が私の足首のあたりを、ふん、と見た。
私はしゃがんで、手の甲をそっと差し出した。
犬は、ゆっくりと近づいてきた。鼻が、ふんふん、と動く。私の指先と、パーカーの袖口と足首を、順番に確かめていく。
(君はあのときの犬だ)
向こうも、同じことを思ったのかもしれない。尻尾が、ふわりとほどけた。
「福ちゃあん!」
ようやく階段を駆け上がってきたおばさんが、柴犬を、両腕でがばっと抱きしめた。犬は観念したように、おとなしく抱かれている。ただ、目だけは、猫のほうを最後までちらちらと見ていた。
「ああ、よかったよかった。どこも怪我してない。ごめんねごめんね、福ちゃん。ママが悪かったのよ」
猫は、あくびをひとつして、塀の向こうに、ぴょんと消えた。
これで、一件落着だ。
それから、おばさんは私に三回頭を下げた。
「本当にありがとうね。あなた、見た目は外国のモデルさんみたいなのに、すごく頭が切れる子ねぇ!」
「……ありがとうございます」
「お名前は?」
「凜です」
「凜ちゃん。いいお名前。日本語上手なのね」
「父が日本人なので」
もう聞き慣れた答えだ。
おばさんは、感激したように何度も頷いた。
「お礼をさせてちょうだい。この近所に美味しいお団子屋さんがあるの。みたらしも、あんこも、よもぎも。ご馳走させて」
「いえ、大丈夫です」
「だめ。これは私の気が済まないの」
断る理由を探した。見つからなかった。
結局、私はおばさんに連れられて、路地を抜けた先にある小さな和菓子屋の前に立っていた。
ガラスケースの向こうで、白いお団子がきれいに並んでいる。みたらし、あんこ、よもぎ、胡麻。どれも、つやつやしていた。
「何が好き?」
「……全部、少しずつ」
「あら、欲張り!」
おばさんは嬉しそうに笑った。私は、ちょっと照れて、フードを深くかぶり直した。
紙箱に詰めてもらったお団子を、両手で受け取る。持ち帰り用の紐が、指に食い込むくらい、ずっしりと重かった。
「また、遊びに来てね」
「……はい」
その返事は社交辞令だったとおもう。
帰り道はタクシーを使わなかった。
モバイルバッテリーで電池を満たしたスマホは、最後まで、青い点を保ち続けた。夕暮れの住宅街を私は、お団子の箱を抱えて、まっすぐに歩いた。
迷子にはならなかった。
「ただいま」
玄関を開けた瞬間、スタジオから帰ったばかりらしいロティが、私の手元を見て、目をまんまるにした。
「リヴィ! それ、なに!?」
「お団子」
「おだんご!? リヴィ、かってきた!? わがし、かってきた!?」
「もらった」
「えっ、リヴィが、わがし、もらった!?」
廊下の奥から、リアムがのっそりと現れた。
「待って。リヴィが、和菓子を買ってきた?」
「買ってない。もらった」
「同じだよ! 同じ! リヴィが、外に出て、自力で、食べ物を調達してきたって、ことでしょう!」
「そんな大層なものじゃない」
「大層だよ! 去年のリヴィなんか、コンビニの場所すら怪しかったのに!」
「今も怪しい」
「自分で言うんだ」
玄関の下駄箱の上で、モチモノが、ぱちぱちと目を瞬かせた。
『リヴィ様、おかえりなさいませ。吸入器、お使いにはなっていませんね。よかったです』
「ただいま」
ロボにまで、お出迎えされるようになった。ずいぶん、賑やかな家になったものだ。
ダイニングのテーブルに紙箱を開いて、お団子を並べた。
母がお茶を数種類、淹れてくれた。母は紅茶とコーヒーの人だけれど、日本に来てからは、お茶の淹れ方もずいぶん詳しくなり上手になった。
「わあ、みたらし! リヴィ、ひとつ、ちょうだい」
「だめ。ロティは、あんこ」
「えー、わたし、みたらし、すき!」
「じゃあ、半分こ」
「ありがとう、リヴィ、大好き!」
ロティが、串を一本、私の手から引き抜いて、満面の笑みで頬張る。それを見たリアムが、ぐるりと私のほうを向いた。
「リヴィ、これ、どこの店?」
「あとで、住所送る」
「いや、そうじゃなくて、誰に買ってもらったの」
「犬の飼い主」
「……犬の飼い主?」
「うん」
説明が面倒になった。いや、正確には説明するほどのことでもない気がした。
私は、ほうじ茶を一口、含んだ。香ばしい。ホットミルクとは、まったく別の種類の温かさだった。
団子の串を、一本、手に取る。もちもちして、甘い。
窓の外では、日がゆっくりと暮れていく。
あの路地で、福は猫と睨み合っていた。猫は犬を無視して、あくびをしていた。犬は猫から目が離せなくて動けなくなっていた。
(人間より、犬の行動パターンの方が、読みやすいな)
口には出さず、心の中だけで静かにそう呟く。
向かいの席で、リアムが「ねえ、僕のよもぎは?」と、騒いでいる。ロティが、「もう、たべた」と、素知らぬ顔で笑っている。母が、二人を叱りながら、父の分を、わざわざ皿の端によけている。
この人たちの行動は読めない。
読めないけれど、嫌いではなかった。
夜、自室の机で、スケッチブックを開いた。
昼に描いた、出桁造りの立面図。腕木の間隔は九十センチ、出は三十二センチ。ひととおり寸法を書き込んで、満足して、ページを閉じかけたところで、ふと手が止まった。
最後のページの端に、余白がある。
そこに、小さく、書き足した。
『福の行動予測モデル:風向・匂い・猫の位置。追加センサー:嗅覚(?)』
しばらく眺める。
消しゴムに手は伸びなかった。




