第3話:持ち物ロボが秘密を暴露し始めた
玄関のほうで、ドタドタと足音がした。
朝の七時四十分。私はダイニングで、ホットミルクの表面にできた膜を、スプーンの背でそっとよけているところだった。二杯目のコーヒーを飲みながら、リアムが新聞アプリをスクロールしている。
「……ない」
廊下から父の声がした。
「ないな。昨日ここに置いたはずなんだけど」
「リク、また?」
母がキッチンから顔を出した。
「空港に着いてから気づくのだけはやめてね。先月の、あの書類の件みたいに」
「あれは書類だ。パスポートじゃない」
「どっちも同じよ。忘れた時の顔が」
父は玄関で、鞄の中身を全部ひっくり返していた。名刺入れ、万年筆、ノートパソコンの充電器。それから、なぜか片方だけの手袋。外交官という肩書きから連想される落ち着きは、そこにはひとかけらもなかった。
「パパ、右のポケット」
私が言うと、父は右のポケットをまさぐって、紺色の冊子を引っぱり出した。
「あった……。リヴィ、なんで分かった?」
「昨日の夜、そこに入れてたの見てた」
「見てたなら、その場で言ってくれ」
「聞かれなかった」
父はネクタイを直しながら、がっくりと肩を落とした。
「今月、三回目なんだよ。一応、国を代表して外国に行く人間なんだけど」
「代表が忘れ物をするのは、国の恥」
「リヴィ、傷つく」
「事実」
母が笑いをこらえているのが、背中でわかった。父は靴を履いて、玄関を出ていった。ドアが閉まる直前、「いってきます」の声が、少し情けない響きで残った。
私は、スプーンを置いた。
ホットミルクの膜は、いつの間にかまたできていた。
設計メモの一行目、『パパ用:出張前の持ち物自動確認ロボ』は、ずっと保留のままになっていた。
お掃除ロボの改良が先だったし、コーヒー機の件もあった。でも、今朝の父の背中を見て優先順位が入れ替わった。
仕様は単純だ。
まず、父が毎日持ち歩くもの、つまりパスポート、名刺入れ、万年筆、各種充電器、鍵、スマホに、五ミリ角の薄いタグを貼る。タグは電波を出すだけの、電池も要らない小さな部品だ。
それを、玄関に置いた丸いロボが読み取る。ロボは、父が家を出る前に足りないものを声で教えてくれる。
これだけなら半日で終わる。
問題は半日で終わらせる気が、私にまったくなかったことだ。
「ただ読み取るだけじゃ、面白くない」
独り言をつぶやきながら、私は設計図に線を足していった。
玄関の気温と湿度を拾って、傘の要否を案内する。父の予定表と連携して、今日の会議に必要な資料を確認する。持ち物の置き場所を学習して、「いつもと違う場所にあります」と注意する。
ここまで足したところで、ふと手が止まった。
置き場所を学習させるなら、父のものだけでなく、家の中の「ものの定位置」を広く覚えさせたほうが、精度が上がる。精度が上がれば、父の忘れ物の予測も正確になる。
(……ついでに、家のなかの全部のタグも読めるようにしておこう)
今にして思えば、この「ついでに」が、すべての間違いのはじまりだった。
試作機は、二日で完成した。
拳より少し大きい、卵形のボディ。底に小さな車輪がふたつ。顔にあたる部分には、丸い液晶がひとつだけついていて、目のような点がふたつ、ぱちぱちと瞬く。
愛想をつけたのは、父のためだ。無機質な箱に毎朝責められたら、父はたぶん、三日で挫折する。
「名前は、つけたの?」
リアムが、ロボを覗き込んで聞いた。
「試作三号」
「味気なっ。リヴィ、もうちょっと、こう」
「じゃあ、リアムがつけて」
「持ち物を確認するから……モチモノくん」
「安直」
「リヴィに言われたくない」
私は黙って、ロボの背面に小さく『モチモノ』と刻んだ。採用だ。リアムは「えっ、採用?」と目を丸くしていた。
その夜、玄関の下駄箱の上にモチモノを据えつけた。父は出張の前日で、鞄に荷物を詰めている最中だった。
「パパ、ここに立って、鞄を持って」
「こうか?」
モチモノの目が、ぱちぱちと瞬いた。ピ、と短い電子音が鳴る。
『パスポートあります。名刺入れあります。万年筆あります』
父の背筋が、すっと伸びた。
『ノートパソコンの充電器……ありません』
「え」
『書斎の机の左の引き出しです。昨日の二十一時から、そこにあります』
父は固まった。それから慌てて書斎へ走り、充電器を握って戻ってきた。
モチモノが、ピロリ、と明るく鳴いた。
『確認完了。行ってらっしゃいませ』
玄関に静寂が落ちた。
父は充電器を握りしめたまま、肩を震わせていた。
「……パパ?」
「リヴィ。パパ、泣いてもいいかな」
「だめ。鞄に落ちる」
「ありがとう……。本当にありがとう。パパの人生で、こんなに頼れる後輩は初めてだ」
「後輩じゃなくて、ロボ」
「後輩だ」
父は、もはや聞いていなかった。
その後ろから、母が音もなく現れていた。腕を組み、モチモノを、じっと見下ろしている。
「……リヴィ」
「うん」
「ママにも、作ってくれるのよね?」
「え」
「会議の前に水を飲むのを忘れるの。いつも気づいたら午後四時で、喉がからからなの。ママ専用の、あれ」
「今、メモに書いてある」
「ありがとう。それと」
母は、ここで、少し声を落とした。
「もうひとつ、お願いがあるの」
「……なに」
「リヴィの吸入器。外に出るとき、持ったかどうか、モチモノくんに確認してもらえないかしら。それと、できれば、位置情報も」
「やだ」
即答だった。
「リヴィ」
「やだ」
「でも、この前みたいに、スマホが切れたら」
「あれは、探索だった」
「迷子でしょう」
「探索」
母の眉が、八の字に垂れた。
私は母のこの顔に弱い。弱いけれど、譲れないものは譲れない。結局、その場は「考えておく」という、便利で曖昧な言葉で逃げた。
母は不満そうに、でも少しだけ嬉しそうに頷いた。
このときの私はまだ知らなかった。
モチモノが、その夜のうちに、家中のものの置き場所を、勝手に覚えはじめていたことを。
翌朝、父を送り出してから、最初に異変が起きたのは午前十時だった。
「リアム様、充電器の場所をお知らせします」
リビングのソファで、ノートパソコンを膝に載せたリアムが、固まった。足元には、卵形のロボが、いつの間にか転がってきている。
『リアム様のスマホ用充電器は、ソファのクッションの下です。昨夜の二十三時十二分から、そこにあります。バッテリー残量は十二パーセントです』
「待って待って待って」
『充電を推奨します』
「なんで僕のスマホのバッテリーまで知ってるの!?」
私は二階の踊り場から、その光景を見下ろしていた。心臓が嫌な音を立てた。
(あ)
(ついでに、タグを全部読めるようにしたの、私だ)
「リヴィ! リヴィ! このロボ、僕の私生活を、バグ報告みたいに読み上げてくる!」
「……ごめん。今、止める」
「待って、まず、お茶飲んでから」
ところが、その十分後。
『ロティ様。ネックレスが洗面所の棚の上に三日間、放置されています。昨日の夜、お風呂上がりに外したままです。保管ケースに戻すことを推奨します』
「なんで! なんで、しってるの!」
洗面所から、ロティの絶叫が響いた。
「ワタシの、ネックレス、ここに、あった! ずっと、あった! でも、だれにも、いってない!」
「ロティ、日本語」
「ニホンゴ、むり! ロボット、こわい! ワタシの、アクセサリー、かんし、してる!」
モチモノが、洗面所の入り口で、困ったように目をぱちぱちさせていた。悪気はない。ただ、仕事熱心なだけだ。
私は、階段を二段飛ばしで降りた。
キッチンでは母が、冷蔵庫の前でロボと見つめ合っていた。
『エマ様。本日の水分摂取量、二百ミリリットルです。目標値の十分の一です。コップ一杯のお水を、今すぐ、飲んでください』
「あの、今飲もうとしてたのよ」
『ありがとうございます。飲んでください』
「飲むわよ、飲むから、その見るのをやめて」
『確認のため見ています』
母が水をちびちび飲む姿は、見ていて少しだけ可哀想だった。そして少しだけ面白かった。
ただ、本人にそれを言えば怒られるので、私は何も言わなかった。
家の中は、午後には完全にモチモノの縄張りになっていた。
リビングでは、リアムが「僕の生活リズム、機械に管理されてる」と呟きながら、渋々ケーブルを抜き差ししている。ロティは、ネックレスの保管ケースを、まるで宝物のように抱えて、自室から出てこない。母は、タイマーで水を飲むたびに、キッチンの方向へ向かって、小さく会釈をするようになった。
そして、夕方。
『リヴィ様。昨夜の就寝時刻は、午前四時十七分です。本日の食事は、トーストを半分のみです。睡眠と食事の改善を推奨します』
私の足元に、いつの間にか、モチモノが立っていた。
ダイニングの空気が、すっと静まった。
全員の視線が、一斉に、私に集まる。
「……リヴィ」
「聞こえなかったことにして」
「リヴィ、四時十七分って、何?」
「リヴィ、トースト、半分って、何?」
「リヴィ、全部きいた」
母に至っては、無言で私の肩にそっと手を置いた。目が笑っていなかった。
「リヴィ。今夜は、ママがごはんを作るわ。ちゃんと、全部食べてもらうから」
「……はい」
「それから、寝るのは十二時まで」
「それはむり」
「むり、じゃない」
私は自分で作ったものに、自分が管理される羽目になった。
これほど皮肉な話は、そうそうない。
お読みいただきありがとうございました。
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