第9話 世界一のお母さんになります
「読んでもいいですか」と美穂が聞いた。
教室の全員が頷いた。
美穂は封筒を両手で持った。
先週から一週間、この封筒を何度手に取ったかわからない。
毎朝、起き上がる前に枕元から取って見て、また置いた。
出かける前に棚の上に並べて眺めた。
夜、電気を消す前に触れた。
手に取って、また戻した。
開けることもできたが、ここで開けようと決めた。
みんなの顔が見えるところで、と先週自分が言ったからだ。
封を切った。
三枚の便箋が出てきた。
「三十年後のわたしへ」と美穂は読み始めた。
声が少し揺れていた。
でも止まらなかった。
「三十年後のわたしへ。わたしは世界一のお母さんになっていますか。家族が笑顔でいられるように、毎日ごはんをつくって、困ったときはそばにいて、ずっとそうしていたいと思います。お母さんというのは、子どもにとって、世界でいちばん大切な人だと先生が言っていました。わたしもそういうお母さんになりたいです」
読みながら、美穂の手が少し震えていた。
洋平にはそれが見えた。
便箋を持つ指が白くなるくらい、力を入れていた。
「次のページです」と美穂は言った。
自分に言い聞かせるように。
「お母さんは子どものそばにいてあげることが一番大切だと思います。学校のことも、友だちのことも、困ったことがあったら何でも話してほしいです。だから、子どもにとってお母さんが世界でいちばん安心できる場所になりたいです。そのためには、わたしも元気でいないといけません。怒ってばかりのお母さんにはなりたくないです。いつでも笑っていられるお母さんになりたいです」
教室が静かだった。
窓から光が入ってくる。
葉桜の枝が、風に揺れている。
「最後のページです」と美穂は言い、一度だけ目を閉じた。
それから開いて、読んだ。
「子どもに、お母さんがいてよかった、と思ってもらえるお母さんになりたいです。それだけがわたしの夢です。三十年後のわたしへ。あなたはなれていますか。田中美穂より」
読み終えた。
便箋を畳まずに、そのまま膝の上に置いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのはさくらだった。
「ありがとう」と言った。それだけだった。
「ありがとう」と由美が続けた。
美穂は顔を上げなかった。
膝の上の便箋を見ていた。
「美穂さん」とさくらが言った。
少し間を置いて、「一つだけ、言わせてもらえますか」と続けた。
「聞く」のではなく「言う」ための間だった、と洋平には聞こえた。
美穂がさくらを見た。
「なっていると思います」と、さくらは言った。
「世界一のお母さんに、なっていると思います。なれる、ではなく。なっている、と思う」
美穂の目が、わずかに動いた。
さくらの言い方が、洋平には引っかかった。
「なれていると思う」・・可能性の話・・ではなく、「なっていると思います」・・すでにそうである、という現在の事実として言っていた。
これからなれるかもしれない、ではなく。
もう、なっている。
そう言っていた。
「そうかどうか、わたしには・・」と美穂は言い、止まった。
「そうだよ」と由美が言った。
「やってきたじゃないか。全部」
「全部、やったと思うんですけど」と美穂は言った。
声が、少し変わった。
「それでも、娘は・・」
そこで止まった。
誰も先を引き取らなかった。
続きを聞こうとしなかった。
でも、みんなが静かにその場にいた。
それが正しいことだと洋平は思った。
ここで何か言えば、美穂が言おうとしている言葉が、どこかへ行ってしまうかもしれない。
美穂は少し間を置いた。
それから、「十年間、会っていないんです」と言った。
静かな声だった。
怒りでも悲しみでもなく、ただ、事実として言った。
でも洋平には、その事実がいかに重いか、伝わってきた。
十年間、という言葉が、教室の空気に溶けるまでに、少し時間がかかった。
さくらが目元を押さえた。
翔太が窓の外を見た。
誠が壁際から動かなかった。
でも、首が少しだけ下がった。
徹が封筒を見た。
自分の封筒を、手の中でゆっくり握り直した。
「それでも、やってきたことは本物だと思います」とさくらが言った。
しばらく沈黙があってから、先生の言葉で言った。
「十年間会えていなくても、あなたが子どもにかけてきた時間は、消えないと思います」
美穂は頷かなかった。
頷けなかったのかもしれない。
でも、さくらの言葉を聞いていた。
「来週も来てください」と洋平は言った。
急に言ったので、自分でも驚いた。
でも、言いたかった。
「また来てください。来週も、再来週も」
美穂は少し間を置いてから、「はい」と言った。
今日一番、しっかりした声で。
帰り際、廊下で美穂は一人になった。
みんなが先に出ていった。
翔太と明日香さんが先に出て、浩二が「また来週」と言いながら出た。
さくらが「お疲れ様でした」と美穂の肩に軽く触れて出た。
由美が振り返って何か言おうとして、「・・うん」とだけ言って出た。
徹が「読んでくれてありがとな」と言った。
珍しかった。
徹がそういうことを言うのは。
誠が最後に出た。
美穂のそばを通りかかったとき、「強いな」と言った。
美穂は「強くないです」と言った。
「そうか」と誠は言った。
「それでも、強いと思った」
それだけ言って、出ていった。
夜。
夫はまだ出張中だった。
一人分の夕食を作った。
茄子の煮浸し。
鯖の塩焼き。
豆腐の味噌汁。
食べた。
片付けた。
お茶を淹れた。
飲んだ。
テレビをつけたが、見ていなかった。
バラエティ番組の笑い声が流れていた。
画面の中の誰かが何かを言って、別の誰かが笑っていた。
全部、遠い話のように聞こえた。
消した。
静かになった。
美穂はダイニングの椅子に座ったまま、テーブルの上に封筒を置いた。
三枚の便箋がそこにある。
一番上のページがこちら向きになっていて、「三十年後のわたしへ」という字が見えた。
自分の字。
三十年前の、十二歳の自分の字。
でも確かに、自分が書いた字。
この字で書いた子どもが、世界一のお母さんになりたかった。
なれたのだろうか。
毎日、料理をした。
洗濯をした。
掃除をした。
運動会に行き、授業参観に行き、文化祭に行った。
受験の夜は隣に座って、入試の朝は早起きをして弁当を作った。
熱を出したときは夜中に額を冷やし、部活で怪我をしたときは病院に付き添った。
全部した。
全部、できる限りのことをした。
それでも、小春は十年前に遠くへ行ってしまった。
最後に笑い合ったのがいつか、もう思い出せない。
最後に一緒に食事をしたのがいつか、思い出せない。
最後に「ありがとう」と言われたのが、いつか。
最後に娘の声を聞いたのが、いつか。
美穂はスマートフォンを手に取った。
連絡先を開いた。
「山田小春」という名前がある。
結婚して苗字が変わっても、美穂のスマートフォンの中では「山田小春」のまま。
変えられなかった。
「こはる」という名前が変わる気がして、変えられなかった。
電話アイコンに、指をあてた。
先週もここで止まった。
この指が、動かなかった。
今日は、動いた。
呼び出し音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
美穂は息をした。
鳴るたびに、胸が少し痛かった。
出ないかもしれない。
知らない番号だと思って出ないかもしれない。
十年間かけていなかった番号だから、もう繋がらないかもしれない。
それでも、鳴っている間は、小春の部屋のどこかで音が鳴っている。
それだけは、本当のことだった。
四度。
五度。
出ないかもしれない、と美穂は思った。
それでもいいと思った。
今日、かけた。
それだけで、今日は十分かもしれない。
来週もかけられる。
再来週もかけられる。
かけ続けることはできる。
六度目の途中で、止まった。
「・・もしもし」
娘の声だった。
美穂は何も言えなかった。
声を聞いた瞬間に、何かが崩れた。
胸の中に三十年間積み上げてきたものが、音もなく崩れた。
言葉が出てこなかった。
出てこないまま、ただスマートフォンを握っていた。
「・・もしもし?」と小春がもう一度言った。
「どなたですか」
十年間で、声が変わっていた。
大人の声になっていた。
でも、確かに小春の声だった。
この声を、美穂は体の奥で知っていた。
「・・こはる」と美穂は言った。
沈黙があった。
「・・お母さん?」
「うん」と美穂は言った。
「お母さんです」
また沈黙があった。
今度は長かった。
どちらも何も言わなかった。
でも繋がっていた。
電話は繋がっていた。
それだけが確かなことだった。
「・・急に、どうしたの」と小春が言った。
怒っているのか、驚いているのか、声のトーンだけではわからなかった。
でも声は、続いていた。
切っていなかった。
「今日ね、同窓会みたいなのがあって」と美穂は言った。
「小学校の同級生と。それで・・手紙を読んで。三十年前に書いた手紙を」
「手紙?」
「タイムカプセルに入れてた手紙。世界一のお母さんになりたいって、書いてた」
また沈黙があった。
「・・そう」と小春が言った。
「なれたかどうか、わからなくて。でも、かけたかった。声が聞きたかった」
美穂は言いながら、自分が泣いていることに気づいた。
声が出ているから泣いていることがわかる。
涙が出ているかどうか、もうわからなかった。
頬が濡れているのか、濡れていないのか。
ただ声が震えていて、震えているまま言葉が出てきた。
「怒ってる?」と美穂は聞いた。
少しの間があって、「・・今は、怒ってない」と小春が言った。
「そうか」
「十年間は、怒ってた」
「そうだね」
「でも、今は・・」と小春は言い、止まった。
止まったまま、しばらく何も言わなかった。
美穂は待った。
急かさなかった。
小春の言葉の続きを、ただ待った。
「・・子どもができたの」と小春が言った。
美穂の手が、止まった。
「そう」と言うのが精いっぱいだった。
「まだ小さくて。保育園に預けることになるかもしれなくて。いろいろ考えてた」
「そうか」と美穂は言った。
「・・どこがいいのかとか、わかんないから」
「そうだね」と美穂は言った。
「わからないよね、初めてだと」
沈黙があった。
「・・また、かけてもいい?」と小春が言った。
美穂の喉が、何かで塞がれた。
それでも声を出した。
「いつでも」と言った。
「うん」
「いつでもかけてきて。お母さんが出る」
「・・うん」と小春が言った。
それだけだった。
その後すぐ、電話が切れた。
美穂はしばらく、スマートフォンを握ったまま座っていた。
指が、まだ震えていた。
テーブルの上に、三枚の便箋がある。
「三十年後のわたしへ。わたしは世界一のお母さんになっていますか」という字が、こちらを向いている。
なれたのかどうか、まだわからない。
でも、今夜、電話がつながった。
それだけは、本当のことだった。
美穂はゆっくりと便箋を畳んだ。
丁寧に、折り目が崩れないように。
封筒に戻して、テーブルの上に置いた。
窓の外、夜の住宅街に、窓の明かりが点いている。
一つ一つの明かりの中に、それぞれの夜がある。
美穂は、お茶を一口飲んだ。
冷めていた。
それでも飲んだ。
娘に子どもができた。
どこの保育園に預けるつもりなのか、聞く勇気がまだない。
でも、また電話ができる。
それがわかった。
今夜、それがわかった。
台所の時計が、音を立てた。
夜の十一時だった。




