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第8話 プロ野球選手になる

 次の日曜日。


 美穂が最初に言った。

「もう一週間、準備させてください。みんなの前で読む前に、もう少し、心の整理をしてから」

 誰も急かさなかった。

「じゃあ、俺がまたやる」と徹が言った。

「先週読んだし、どうせ」

「先週と今週は違う」とさくらが言った。

「先週は気づいたら読んでた。今週はみんなで聞く。それは別のことだよ」

「そうなのか」

「そうなんだよ」

 徹は少し不服そうにしてから、「まあいいか」と言った。

 いつもの台詞だと洋平は思ったが、今日のそれは少し軽かった。

 先週と何かが変わっているのかもしれなかった。


 缶から封筒を取り出した。

「鈴木徹」という字で宛名が書かれた封筒。

 一度開けた封筒は、また閉められない。

 教室に十一人が揃っていた。

 先週と同じ顔ぶれで、同じ机と椅子で、同じ窓から同じ光が入っていた。

 でも空気は違った。

 先週は「どうする?」という空気だった。

 今週は「聞く」という空気だった。

 その差が、室内の密度を変えていた。


 徹が便箋を広げた。

「ぼくはプロ野球選手になっていますか。なっていてほしいです。チームはジャイアンツかドラゴンズがいいです」

「また立浪かよ」と浩二が言い、笑いが起きた。

 先週と同じ台詞で、先週と同じ笑い。

 でも今週の笑いは少し柔らかかった。

 知っているから笑える笑いだった。


 徹は続けた。

「おとうさんはぼくの試合を見に来てくれますか。おとうさんはあまり試合を見に来てくれないので、プロになったら一番前の席でずっと見てほしいです」

 笑いが静かになった。

 さくらが下を向いた。

 由美が封筒の角を指でなぞった。

 誠は壁際から動かなかったが、目だけが動いた。

 先週に聞いたときと、同じ言葉。

 でも今週は全員が「聞く準備」をして来ていた。

 同じ言葉が、違う場所に落ちる。


「ぼくは野球がずっと好きです。三十年後もきっと好きだと思います。もし野球選手になれなくても、野球はやめていないと思います。ずっと好きだから」

「最後です」と徹は言い、少し間を置いた。

「三十年後のぼくへ。夢、叶えてますか? できてなかったとしても、まあいいか、と思えてますか? 鈴木徹より」

 読み終えた。

 沈黙があった。


 洋平は窓の外を一度見た。葉桜の枝が風に揺れている。

 三十年前に封筒を封じた十二歳の徹が、おそらくこの同じ空の下で便箋に向かっていた。

 同じ建物の、同じ面を向いて、三十年分の時間が流れた。

 この教室はその間変わらなかったのか、と洋平は思った。

 変わらないものが、あるというのは、しんどいことでもあり、ふしぎなことでもある。


「野球、今も本当に好きか?」

 浩二が聞いた。

 珍しく、冗談でなく。

「好きだ」と徹は言った。

「嘘じゃないか」

「嘘じゃない。週末、子どもたちとグラウンドに立ってると、本当に楽しい」

「でも、プロにはなれなかったんだろ」

「なれなかった」

「それは、どうなんだよ」

 浩二の問いに、教室が少し静かになった。

 直接すぎる問いだったかもしれないと洋平は思った。

 でも浩二が聞かないと、誰も聞けなかった可能性がある。

 そういう役割がある人間が、どの場にも一人は必要だった。


「どうなんだろうな」と徹は言った。

 しばらく考えてから、「答えが、先週から少し変わったかもしれない」と続けた。

「変わったか?」

「ちょっとな」

 封筒を手の中で折り畳みながら、徹は言い始めた。

「先週、家に帰ったら、手紙をダイニングのテーブルに置いたんだ。無意識に。飯食って、風呂に入って、また読もうと思って」

「読んだか?」

「読んだ。でもその前に、龍之介に読まれた」

「龍之介って、息子さん?」とさくらが聞く。

「中二の。手紙が置いてあるから読んだらしくて、俺が風呂から出たら、リビングで手紙を持って立ってた」

「それで?」

「最初は怒ったんだよ。勝手に読むなって」

「そうだよな」と誰かが言った。

「でも、そしたら龍之介が『父さん、プロ野球選手になれたのかって書いてあるじゃん』って言って。俺が『なれてないよ』って言ったら、不思議そうな顔をして」

 教室が静かになった。

「『でも父さん、野球やってるじゃん』って言うんだよ。『週末、子どもたちに教えてるじゃん。それって、夢叶ってるんじゃないの』って」

「・・中二が言ったのか」と洋平は言った。

「中二が言った。あいつ、普段ほとんどしゃべらないのに。飯の間もスマートフォン見てるのに。あの日だけ」

 しばらく誰も何も言わなかった。


「参ったよ」と徹は言った。

 声が少し低かった。

「子どもに言われると、ぐっと来るな。そういうことを言われると思ってなかったから。そんな見方があるとは思ってなかったから」

「素直な子じゃないか」とさくらが言った。

「素直かどうかは知らない。でも、なんか、許されたような気がした。三十年間のことを、まとめて」

 その言葉が、教室の空気に静かに溶けた。

 洋平は「許されたような」という徹の言い方を、頭の中で繰り返した。

 許されたような、というのは、誰かに謝っていた、ということだ。

 三十年間、誰かに謝り続けていたんだ、と洋平は思った。

 それが誰に対してなのかは、聴けなかった。

 徹が次に話すまで、そのままにしておくことにした。


 翔太が小さく鼻を抑えた。

 黙っていた。

 今日の翔太は、徹の話の中にいた。

 自分のことのように聴いていた。

「手紙に、お父さんのことが書いてあったよね」と由美が聞いた。

「今は来てくれるの?」

「まあ、それなりに」

「それなりに、ってどういうこと?」

「・・数えたことある」と徹は言った。

 声のトーンが変わった。

「子どもの頃、親父が来た試合の数」

「何回だった?」

「三回」

 沈黙があった。

「三回か」と誰かが言った。

「三十年間、一番前の席でずっと見てほしかったのに」

「今も来るのか」と洋平が聞いた。

「もう八十近い。腰も悪いし、来るのは難しいかもしれない。でも」と徹は言い、止まった。

「三回って、今日ここで思い出したら、自分がずっと数えてたんだと気づいた。意識してなかったのに、数えてた。そういうもんなんだな、子どもって」

 由美が何か言おうとして、止めた。

 さくらが正面を向いたまま、目元を少しだけ押さえた。

 誰も笑わなかった。

 徹は少し間を置いてから、「まあ、いい。今日、ここで言えたからいい」と言った。

 言いながら、本当にそうなのかもしれないと洋平は思った。

 言葉にしたから、少し軽くなる。

 言葉にしない限り、ずっと数え続けていたかもしれない。


 少しの沈黙のあと、浩二が「チームには面白いやつがいるのか」と聞いた。

 空気を変えようとしているのがわかった。

 それでいいと洋平は思った。

「いろんなやつがいる。ぱっとしないのも、うまいのも」

「徹に似たやつは?」

「うるさい。でも一人、ちょっと変わった子がいるよ」

「どんな?」

「試合の前日に、必ず駅前のパン屋に寄る子がいてな」

「何買うんだ」

「いつも同じ。クリームパンを一個」

「縁起担ぎか?」

「聞いたら、笑いながら教えてくれた。クリームパンを食べると、打てる気がするって。それだけ。理由はそれだけなんだって」

「なんだそれ」と浩二が言い、「かわいいじゃないか」とさくらが言い、笑いが少し戻ってきた。

「でも本当にうまいんだよ、その子。打率も高いし、守備も堅い。六年生で、田村凌太って言うんだけど、次の大会が楽しみでしょうがない」

「そっか」と洋平は言った。

 田村凌太、という名前を、洋平は頭の中に留めた。

 なんとなく、もう一度この名前を聞く気がした。

 どこか別の場所で、別の話の中で。


 帰り際、廊下で徹が言った。

「なんか、しゃべりすぎた気がする」

「しゃべりすぎてないよ」と洋平は言った。

「お父さんの話は余計だったかな」

「余計じゃない」

「そうか」


 徹はしばらく黙ってから、「俺、三十年間ずっと、夢が叶わなかったと思い込んでた。でも龍之介の一言でひっくり返って。なんか変な感じなんだよな。喜んでいいのかどうかも、よくわからない」

「喜んでいいよ」と洋平は言った。

「そうか」

「ひっくり返っていいんだよ、三十年間の思い込みは」

 徹は「そうかもな」と言って、少し笑った。

 今日初めて、目まで笑った笑いだった。


 先週の帰り際、肩が下がっていた背中が、今日は少し違う。

 洋平にはそれがわかった。

 完全に変わったわけではない。

 三十年は、一週間では終わらない。

 でも少しだけ、軽くなった背中だった。

 子どもに変なことを言われることがある。

 洋平には、二十年ぶりにそのことを思い出した。

 子どもの声には、近くにいるからこその、悪気のない普通さがある。

 その普通さが、ときどき三十年分をまとめてひっくり返す。


 校門の前を通ると、赤いポストが立っていた。

 風が吹いて、葉桜の枝が揺れた。

 徹の手には、折り畳まれた便箋の入った封筒があった。

 三十年かけて書いた手紙が、三十年後の息子に届いた。

 少しだけ、回り道をして。


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