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第7話 約束

 また日曜日が来た。

 空は晴れていた。

 学校の桜は、もうすっかり葉桜になっていた。

 先週まで残っていた花びらの気配が消えて、枝の先に若い緑が出ている。

 季節が、少し進んでいた。


 十一人が、またあの教室に戻ってきた。

 誰も遅刻しなかった。

 由美も、徹も、誰一人欠けていなかった。

 浩二が一番早く来ていて、洋平が着いたとき「よ」と言って手を上げた。

 さくらが少し早めに来て、教室の窓を一枚だけ開けた。

 空気が入ってきた。

 翔太は妻の明日香に車椅子を押してもらって入ってきた。

 誠は廊下の端から黙って来て、また壁際に立った。


 机の上に缶を出した。

 先週と同じ机の上に、先週と同じように。

 でも、空気は違っていた。

 先週まで、あの場所にはどこか同窓会のような空気があった。

 懐かしさと照れくささ、それに名刺や飴玉までが入り混じる、少しふわふわした空気。

 今週それが薄れて、代わりに「これが続いていく何かだ」という感覚が教室に満ちていた。

 洋平には、それがわかった。

 長年の公務員生活で身につけた習慣で、「この会の性格が変わった」という瞬間の重さを、体で感じ取れる。


 みんなが席についた。

 誰も最初に口を開かなかった。

 窓から入ってくる風が、古いカーテンを少しだけ動かした。

 それだけだった。

 洋平は誰が先に言い出すか、少し待った。

 大声で冗談を言っていた美穂が静かで、いつも笑いを人にふりまく浩二が黙っている。

 他人の気を察する誠が腕を組んでいる。

 先週とは少し違う、と洋平は思った。

 先週までは「会いに来た」という場所だった。

 今週は「戻ってきた」という場所になっている。

 その差が、空気の重さにあった。


「先週、手紙、開けた人いる?」

 由美が聞いた。

 あまり深く考えずに聞いたような、でもずっとそれを聞きたかったような、そういう声だった。

 沈黙があった。

「開けました」と美穂が言った。

 静かな声で、でも明確に。

 全員が美穂を見た。

「どうでしたか」とさくらが聞く。

 やさしく、教師の口調で。

 美穂は少し間を置いた。

「泣きました」と言った。

 敬語になっていた。

 感情を整理しながら言葉を出している感じ。

「そうか」と洋平が言った。

 美穂がもう一度、「泣きました」と言った。

 今度は誰かに向けてではなく、ただ、確認するように。

 自分に言い聞かせているみたいに。


「一人だったのか」と翔太が聞いた。

「一人でした」

 翔太は小さく頷いた。

 それ以上は言わなかったが、何かを感じているのが洋平にはわかった。

「俺も」と徹が言った。

 全員が徹を見た。

「お前、先週もう読んだだろ」と洋平が言う。

「読んだよ。でも夜、また一人で読み直した。布団の中で」

「どうなった」

「手紙の言葉と、今の自分が、真夜中の暗い部屋で一対一で向き合う感じになった。きつかった」

「きつかったか」

「一人でやるもんじゃなかった、と思った」


 徹は封筒を机の上に置いた。

 珍しく、声が少し低かった。

 いつもなら何かしら冗談を混ぜるのに、今日は混ぜなかった。

 それが洋平には、先週の帰り際よりも正直な感じがした。

「私も開けた」と由美が言った。

「テレビつけたまま、布団の中で。女優になりたいって書いてあって」

「女優!」と浩二が声を上げた。

「そうだっけ!?」

「そうだよ。驚かないで」

「驚いてるよ、すごいじゃないか」

「すごくない。結局なれなかったから。受付の仕事して、今は派遣でOAインストラクターで。書いてあった夢を一人で読んでたら、笑えなくて、なんか一人でいたらダメだと思って」

「なんでダメなんだ」

「一人だと、重すぎるんだよ」

 重すぎる、という言葉が、教室の空気の中に残った。

 少しの間、誰も何も言わなかった。


「私は開けられなかった」とさくらが言った。

「机の上に置いて、ずっと見てた。夜中の一時まで、ただ見てた」

「俺は開けた」と浩二が言った。

「二秒で後悔した」

「なんで二秒で」と達也が聞く。

「世界一の発明家になりますって書いてあった。一行で終わってた」

「一行!」と徹が言い、「まとめたかったんだよ、俺は簡潔な子どもだったから」と浩二が返し、また笑いが少し起きた。

 発明家、という言葉が宙に浮いて、誰かが「発明家って何を発明する予定だったんだ」と聞き、「決めてなかった」と浩二が言い、「決めずに書くな」と徹が言った。

 笑いはあった。

 でも先週よりも、少し軽い笑いだった。


「俺は開けなかった」と誠が壁際から言った。

「だが、眠れなかった」

「それはつらい」と洋平が言った。

「つらかった」と誠は言った。

 刑事の言葉ではなく、四十二歳の男の言葉で。


 翔太は、「外で封筒を持ってた」と言った。

「明日香と一緒に玄関の前に出て。開けなかったけど、持ってた。雲が出てて、星も見えなかったけど、それでも空を見てた」

 誰も笑わなかった。

「うん」と誰かが言った。

「うん」と誰かが続けた。

 それだけで、わかった。


 洋平は翔太のことを考えた。

 先週、翔太は封筒を膝の上に置いたまま曇り空を見上げていた。

 明日香さんが一緒に外に出て、寒くなるまでそこにいた。

 その後、翔太が「開けなかったけど、持ってた」と言ったとき、その一言の淡々しさが洋平には響いた。

 開けずに持っていることも、一つの向き合い方だと思った。


 少しの沈黙のあと、美穂がまた口を開いた。

「一人で読むのは、辛すぎる」

 今度は、笑いにはならなかった。

「そうだな」と洋平は言った。

「手紙を読むとき、誰かそばにいてほしかった」と美穂は続けた。

 声が少しだけ揺れていた。

「ここで読みたかった。みんなの顔が見えるところで」

 誰も何も言わなかった。

 美穂は下を向いてから、またすぐ顔を上げた。

 涙をこらえているのか、何かを決意しているのか、洋平には判断できなかった。

 でも、美穂がここで正直に言ったことは、正しいことだと思った。


「じゃあ、ここで読もう」と浩二が言った。

「ここで?」

「一人ずつ。ここで読む。みんながいるところで」

 誰も否定しなかった。

「毎週一人ずつ、か」と徹が言った。

「そのくらいのペースがいい」とさくらが言った。

「急いで全部読んでも、消化できない」

 消化、という言葉を、洋平は頭の中で繰り返した。

 手紙を読むことは、食べることに似ているかもしれない。

 急いで食べても、体に残らない。

 ゆっくり噛まないと、意味がなくなる。


「毎週日曜、ここで一人ずつ読む。読んで、みんなで話す。それでいいか」

 洋平が言うと、一人ずつが答えた。

 由美が「いい」と言い、徹が「いい」と言い、誠が頷いた。

 翔太が「俺もそれで」と言い、美穂が小さく「はい」と言った。

 浩二が「もちろん」と言い、さくらが「ぜひ」と言い、達也が「いいね」と言い、麻衣が静かに頷いた。

 和也が「賛成」と言い、莉子が「私もそれがいい」と言った。

 十一人の「いい」が、古い教室に積み重なった。

 なんとなく、また「六年二組」みたいだった。

 先生がいない「六年二組」だったが、それでも何かが決まったような感じがあった。


 洋平は、決まる前に一度、缶の中を見た。

 美穂の封筒、徹の封筒、十一通分が缶の中にある。

 それともう一通、宛名のない封筒がある。

 先生に宛てた誰かが入れたのか、それとも別の何かなのか、まだ誰にもわからない。

 それを調べる日が、まだ先にある。

「じゃあ、来週は誰が読む?」

 少し間があった。

「美穂がいいんじゃないか」と徹が言った。

「もう開けてるし。それに、今日一番正直に話してた」

 美穂は少し驚いた顔をした。

「私・・でいいですか」

「美穂に聞きたい」と由美が言った。

「美穂の手紙、気になる」

「気になるってなんですか」と美穂が困ったように笑った。

「なんか、気になるんだ」と由美が返した。

「世界一のお母さんになりたいって書いたんでしょ?」

「なんで知ってるんですか」

「知らない。でも、そういう気がして」

 美穂は少し間を置いた。

「・・そうです。そう、書きました」

「じゃあ、来週は美穂だ」と洋平が言った。

 美穂が、もう一度「はい」と言った。

 今度は最初より少し、しっかりした声で。


 帰り際、洋平は廊下に立って、みんなが教室を出るのを見ていた。

 浩二が「じゃあな」と言って出ていった。

 さくらが「来週、よろしくお願いします」と美穂に向かって頭を下げ、美穂が「こちらこそ」と返した。

 達也と麻衣はまた別々に出ていった。

 翔太と明日香が廊下を通るとき、翔太が洋平の方を見て、「また来週」と言った。

 誠が最後に出てきた。

 洋平のそばを通りかかったとき、短く言った。

「来週も来る」

 それだけだった。

 でも洋平には、それが嬉しかった。


 廊下の窓から、校庭が見えた。

 桜は散り終わっていた。

 葉桜になった枝が、風に揺れている。

 先週まであった花の気配が、完全に消えている。

 錆びた缶を、洋平は紙袋に戻した。

 来週、美穂の手紙を、ここで聞く。

 それが決まった。

 先生への言えなかったことが、また胸の奥に沈んでいた。

 でも、来週また来る。

 再来週も来る。

 毎週この教室に来て、誰かの手紙を聞く。

 そうしながら、少しずつ、何かが動いていくのかもしれなかった。


 洋平は紙袋を抱え、廊下を歩いた。

 階段を下りると、校門の前に赤いポストが立っていた。

 いつもと同じ場所に、いつもと同じように。

 手紙は、時間をかけて届く。

 三十年かかることもある。でも、必ず届く日が来る。

 洋平はそれを、少しだけ信じることにした。

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