第6話 帰り道
その夜、十一人は、それぞれの家に帰った。
同じ封筒を抱え、同じ缶の周りで笑ったり黙ったりして、それから各々が電車や車で、自分の日常に戻っていった。
帰りの電車の中で誰かと並ぶこともなく、それぞれが別々の路線を使い、別々の町に散った。
その夜、洋平のLINEグループには「おやすみ」の一言も来なかった。
みんな、それどころではなかったのだろう。
徹が玄関を開けると、息子の龍之介がリビングから顔を出した。
中学二年生。
最近はひとことも話さない日もあるのに、今夜は珍しく来た。
「父さん、なんか持ってる」
「ああ、これか。昔、学校に埋めたやつ」
「タイムカプセル?」
「そう。三十年ぶりに出てきた」
「ふーん」と龍之介は言い、スマートフォンに視線を戻した。
夕食のあいだ、妻の和子が「今日はどうだったの」と聞いた。
「同窓会みたいなの」と答えると、「楽しかった?」と続いた。
「まあ」と言って、箸を置いた。
それ以上、聞かれなかった。
風呂から上がり、リビングのソファに座り、徹は封筒を再び手に取った。
中身はもう知っている。
さっき全員の前で声に出して読んだ。
全部知っている。
それなのに、また広げた。
「三十年後のぼくへ。夢、叶えてますか? できてなかったとしても、まあいいか、と思えてますか?」
読んだ。
止まった。
まあいいか、と思えるか。
野球はやっている。
週末、少年野球チームの監督として、グラウンドに立っている。
好きだ、今でも。
それは本当のことだ。
でも。
十二歳の自分に問われると、答えに詰まる。
「まあいいか」と言うには、まだどこかで何かが引っかかっている。
その引っかかりの正体を、言葉にする術がなかった。
少年野球の子どもたちの試合に行くと、監督としてグラウンドに立っている自分には、親として観戦席に座る資格がない。
試合の最中、子どもがヒットを打ったときに身体が動いてしまう自分がいる。
あれ、これは監督の反応じゃないな、と思いながら、それでも毎週行きたくなる。
それが「まあいいか」なのか、それともまったく別の何かなのか、徹にはまだわからなかった。
テレビの音が遠くから聞こえてくる。
龍之介が部屋のドアを閉める音がした。
和子が食器を片付けている音。
自分だけが、動いていない気がした。
徹は便箋を畳み、封筒に戻した。
枕元に置いて、電気を消した。
暗い天井を見ていた。
まあいいか、と思える日が、くるのかな。
さっさとくるのか、それとも時間がかかるのか。
どちらでもいい、と徹は思うことにして、目を閉じた。
それでも、なかなか眠れなかった。
美穂が帰宅すると、誰もいなかった。
夫は出張中で不在。
子どもたちはとっくに独立している。
茶の間に封筒を置き、冷蔵庫を開けて夕食の準備をした。
切り干し大根の煮物。
鮭の塩焼き。
一人分のご飯。
作ることはできるが、食べる量がどんどん減っている。
テレビをつけた。
バラエティ番組の笑い声が流れた。
画面の中の誰かが笑っていた。
遠い話だと思った。
食器を洗い終えてから、封筒に戻った。
ダイニングテーブルに座り、表を見た。
「田中美穂」という自分の字。
丁寧すぎるくらい丁寧に書かれている。
封筒の折り目は定規で当てたかのようにまっすぐで、セロテープが二重に貼ってある。
当時の自分らしかった。
何でも丁寧に、丁寧に。
封を切った。
三枚の便箋が出てきた。
「三十年後のわたしへ。わたしは世界一のお母さんになっていますか。家族が笑顔でいられるように、毎日ごはんをつくって、困ったときはそばにいて、ずっとそうしていたいと思います。お母さんというのは、子どもにとって、世界でいちばん大切な人だと先生が言っていました。わたしもそういうお母さんになりたいです」
読みながら、手が震えてきた。
なっていたか。
料理はした。
毎日した。
掃除もした。
運動会に行き、授業参観に行き、受験の夜は隣に座った。
全部した。
でも、娘とは十年間、会っていない。
最後に笑い合ったのがいつか、もう思い出せなかった。
輪郭がぼやけた。
笑っていたのかもしれないし、笑っていなかったのかもしれない。
記憶の中の娘の顔が、上手く浮かばなかった。
美穂は便箋を畳み、封筒に戻した。
テーブルに置いて、しばらく見つめた。
この封筒を三十年前の自分が書いた、と思うと不思議な気持ちになった。
あの頃、十二歳の自分は、当たり前に「世界一のお母さん」になれると信じていた。
雑誌の付録の「お母さん」の記事を切り抜いていたことを、ふと思い出した。
カーネーションのピンを胸元にそっとつけていたこと。
母の日が来るたび、母が亡くなるその日まで、母の小さなことが気にかかっていたこと。
高校生の子を持つ母親たちがきらきらして見えて、自分はそうはなれないと思っていたこと。
それでも、全力でやってきた。
全力でやってきたのに、娘は十年前に遠くに行ってしまった。
それがどういうことなのか、今の美穂には、まだ答えが出ない。
スマートフォンを手に取った。
連絡先を開く。
娘の名前がある。
電話アイコンに、指を当てた。
押せなかった。
でも、閉じることもできなかった。
小さな画面の中に、娘の名前がある。
山田小春。
結婚して苗字が替わっても、読みは「こはる」のまま、美穂のスマートフォンの中にいる。
一度も変えていない。
変える気になれなかった。
美穂はそのまま、しばらくの間、画面を見ていた。
翔太が「外の空気、吸いたい」と言うと、妻の明日香がすぐに「行こう」と言った。
夜の十時過ぎ。
明日香が車椅子を動かし、廊下を通り、玄関前まで出た。
外の空気が入ってきた。
四月の夜は、まだ冷たかった。
翔太は空を見上げた。
曇っていた。
星は見えなかった。
それでも、しばらく上を向いていた。
膝の上に、封筒があった。
「みらいの石川翔太へ」と、ひらがなで書いてある。
「読んだ?」と明日香が聞いた。
「まだ」
「読む?」
「もう少し、このままで」
明日香は何も言わず、翔太の横に立った。
宇宙飛行士になりたかった、と翔太は思った。
なれなかった。
身体の問題が出る前から、難しかったかもしれない。
でも、信じていた。
十二歳の翔太は、まだ全部信じることができた。
あの信じ方を、今の自分は持っていない。
宇宙飛行士になれなかった自分を、翔太は怨んでいない。
怨んでいた時期はあったかもしれない。
でも今は、ただ一つの事実として、静かに存在している。
それよりも、身体のことで自分が選べなかった道があったことを、どこかでいまだ引っかかっている自分がいる。
言葉にするほどのことではなく、ただ、ここにある。
それは失ったのか。
あるいは、別のものに変わったのか。
曇り空を見上げたまま、翔太は封筒を膝の上でゆっくり握り直した。
中身はまだ見ていない。
見るのが怖いのではない。
ただ、もう少しだけ、この重さのままでいたかった。
開ける前の、この感じを。
「寒い?」と明日香が訊いた。
「少し」と翔太は答えた。
「じゃあ、そろそろ」
「うん」と言って、それでももう少し、上を向いていた。
誠は帰宅してから、封筒を机の上に置いた。
それだけだった。
夕食を食べ、風呂に入り、歯を磨き、寝室のふとんに入った。
封筒は、机の上にある。
目を閉じた。
眠れなかった。
天井を見た。
また閉じた。
また開けた。
時計を見ると、午前一時だった。
誠は起き上がり、机の前に座った。
封筒を手に取り、表を見た。「石田誠」という字。
その下に、「三十年後のまこちゃんへ」と書いてある。
まこちゃん。
誰も今はそう呼ばない。
妻も子どもも、部下も上司も、誰も。
取調室でも、捜査会議でも、どこでも、「石田」か「刑事さん」だ。
三十年ぶりに、その名前で呼ばれた気がした。
呼んだのは、他の誰でもない。
三十年前の自分だ。
誠はしばらく封筒を持ったまま、机の前に座っていた。
開けなかった。
開ける必要が、今夜はないような気がした。
「まこちゃんへ」という字を見るだけで、十分だった。
それだけで、少し、楽になった。
三十年かけて捜査一課の刑事として生きてきた誠が、「まこちゃん」という字を見て少し楽になるとは思わなかったが、そうなった。
三十年前の自分は、誠を呼ぶときのような字の形をしていた。
字が下手だったのか、あどけない指で書いたのか。
ゆっくりした小学生のまこちゃんが、部屋の隅っこにいた。
おかしな話だと誠は思ったが、おかしな話でもなかった。
洋平は帰宅してから、棚の上に缶と封筒を並べて置いた。
缶の横に、「吉田洋平」と書かれた封筒。
並べると、少し落ち着いた。
一つだと寂しいが、二つ並べると、なんとなく会話しているように見える。
簡単な夕食を作り、一人で食べた。
外を見ていた。
夜の住宅街に、窓の明かりが点いたり消えたりしている。
一つ一つの明かりの中に、それぞれの夜がある。
今夜、十一人がそれぞれの家で、同じ封筒と向き合っている。
誰かは開けたかもしれない。
誰かは泣いたかもしれない。
誰かは笑ったかもしれない。
徹は、あのあとどうしているだろう。
少し肩が下がっていた背中が、まだ頭の中にあった。
食器を片付け、風呂に入り、電気を消す前に、棚の封筒を一度手に取った。
「吉田洋平」という自分の字。
中に、十二歳の自分がいる。
どんな夢を書いたのか、もう覚えていない。
でも、確かに書いた。
書いたときの感覚だけは、かすかに残っている。
あの夕方、教室の窓から斜めに差し込んでいた光の角度。
先生が「さあ、書け」と言った声の調子。
鉛筆が便箋に触れた瞬間の、少し緊張した感じ。
あの先生が、今はいない。
洋平は封筒を棚に戻し、電気を消した。
暗い部屋の中で、目を開けたまま、天井を見ていた。
来週、また集まる。
それだけを、頭の中に置いて、目を閉じた。




