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第5話 最初の手紙

 誰も口を切れなかった。

 缶は机の上に置かれ、三十一通の封筒が中に入っている。

 先週から一週間、誰一人として「やっぱり今すぐ開けたい」と連絡してきた者はいなかった。

 それどころか、洋平のLINEには「まだ開けてないよな」「大丈夫か、あの缶」「来週、覚悟してく」というメッセージが飛んできていた。

 覚悟、という言葉の軽さと重さが、奇妙に共存していた。


 日曜の午後。

 教室に十一人が揃った。

 天気は晴れだった。

 桜はもう散り始めていた。

 窓から見える枝が少しずつ緑に変わっている。

 終わりかけの春だ、と洋平は思った。

 缶を開けるには、ちょうどいい季節なのかもしれなかった。


「今日こそ、開けるよな」

 徹が言った。

「開ける」と洋平が返す。

「誰が最初に読む?」

 沈黙があった。

 九人が互いに目配せをした。

「お前が」「いや、お前が」という視線の応酬が、音もなく行われた。

 誠は視線に参加せず、腕を組んで壁を向いていた。


「俺が行く」

 徹が言った。

 全員が徹を見た。

「マジで?」と由美が聞く。

「マジで。俺、どうせプロ野球選手になれてないんだから、隠すもんないし」

 言いながら、缶の蓋を自分で開け、中から封筒を引っ張り出した。

「鈴木徹」という字で宛名が書かれた封筒。

「三十年後のぼくへ」とその下に書いてある。

 字はゆがんでいる。

 小学生の字だ。

 徹は封筒を持ったまま、少しの間だけ止まった。

 一秒か、二秒か。

 その間に、教室の空気が変わった。

 誰も何も言わなかった。

 徹が封筒を切るまでの数秒間、十一人全員が同じものを感じていたと思う。

 三十年前の十二歳の自分が、これから読まれる。

 反論も弁明もできない。

 十二歳の自分は、全部本気だったのだから。

「よし」と言って、封を切った。

 全員が息を詰めた。


 中から、二枚の便箋が出てきた。

 罫線入りの、学校の便箋だ。

 徹は開いた。

 読み始めた。

 声に出した。

「ぼくはプロ野球選手になっていますか。なっていてほしいです。チームはジャイアンツかドラゴンズがいいです」

 笑いが起きた。

「ドラゴンズ!」と浩二が声を上げた。

「なんで」

「あの頃、立浪が好きだったんだよ! なんか格好よかった!」

「続き、続き」と由美が急かす。

 徹は続けた。


「おとうさんはぼくの試合を見に来てくれますか。おとうさんはあまり試合を見に来てくれないので、プロになったら一番前の席でずっと見てほしいです」

 笑いが、少し静かになった。

「なんか、かわいい」とさくらが小さく言った。

 洋平はその少しの間、教室全体を見わたした。

 翔太は、耐えたような表情をしていた。

 少し口元を結んで、下を向いていた。

 洋平はその横顔を読もうとして、やめた。


 美穂は正面を向いたまま、一度だけまばたきをした。

 こういうとき、美穂はいつも正面を向く。

 言葉にしない方法で、評価しないようにするときの姿勢を洋平は知っていた。

 浩二は「おとうさん」の段で何かを思い出したらしく、黙って下を向いた。

 リアクションを入れるのが遅れた。

 いつもはすぐに突っ込んで笑い飛ばす浩二が、ここだけは黙っていた。

 由美は手の指先を見ていた。

 読み込みすぎかもしれないが、洋平にはそう見えた。

「続けて」と誠が言った。

 珍しく、促した。

 徹は続けた。


「ぼくは野球がずっと好きです。三十年後もきっと好きだと思います。もし野球選手になれなくても、野球はやめていないと思います。ずっと好きだから」

「最後です」と徹が言い、少し間を置いてから読んだ。

「三十年後のぼくへ。夢、叶えてますか? できてなかったとしても、まあいいか、と思えてますか? 鈴木徹より」

 読み終えた。

 教室に笑いが戻ってきた。

「まあいいか」って書いてるじゃんか、と浩二が言った。

「最初から諦めてた感があるな」

「違う! 希望を持ちながら覚悟もしてたんだよ!」

「それ矛盾してない?」

「してない。小六って、そういう複雑な生き物なんだよ」

「お前が特殊なんだよ」と達也が笑い、由美が「お父さんの話、ちょっとじんわりした」と言った。

「やめろ」と徹が言った。

「そこはふつうに流してくれ」

「流せないよ。かわいいじゃん、子どもの頃の徹が」

「やめろ」

「お父さん、今は試合見に来てくれるようになったの?」とさくらが聞くと、徹は「まあ, それなりに」と言って、少し視線をずらした。

 洋平は、その視線のずれを見ていた。

 笑いが続いていた。


 由美が「ドラゴンズ!」ともう一度言い、浩二が「立浪かよ」と言い、誰かが「その時代か」と言い、また笑いが重なった。

 徹も笑っていた。

 ちゃんと笑っていた。

 でも、洋平は気づいた。

 目が、笑っていなかった。

 口元は笑っている。

 声も出ている。

 リアクションも取っている。

 でも、何かが違う。

 笑いの外側だけが動いていて、中心が動いていない感じ。


 長年の公務員生活で、洋平はその種の笑いを何度も見てきた。

 会議で部長の面白くない冗談に笑う笑い。

 取引先の自慢話に感心する笑い。

 うまく笑えていても、どこかが冷めているる笑いだ。

 徹のそれは、違う種類だったが、似たものだった。

 笑えていない、のではなく、笑いが届いていない、という感じ。


 便箋を、徹は手の中でゆっくり折り畳んだ。

 丁寧に、三つ折りに。

 元の折り目に合わせて、正確に。

 その間、徹は少しだけ下を向いていた。

 洋平は何かを言おうとした。

 言いかけて、止めた。

 笑いはまだ続いていた。

 徹が「立浪は当時本当に凄かったからな」と言い、浩二が「でも三年で引退したじゃなかったか」と言い、ただそれが続いていた。

 徹も応じている。

 ちゃんと応じている。

 でも、洋平は気になっていた。

 徹がツッコミを入れるのが、今日は少し遅い。

 普段ならもっと即座に返すのに、浩二の「徹、お前引退してなかったか」に、徹は「・・まあ」と言って一拍置いた。

 その一拍が、洋平には引っかかった。

 一拍で流せるような問題ではなかった。

 一拍で流せないからこそ、一拍置いたのだ。

 聞けなかった、というより、聞かなかった。


 由美も気づいていた。

 洋平には、それがわかった。

 さくらも、おそらく気づいていた。

 教師はそういうものを見つける目を持っている。

 でも誰も聞かなかった。

 それは冷たさからではなかった。

 聞くことで、それが大きくなってしまうような気がした。

 今ここで「どうした?」と聞けば、徹は何かを答えなければいけなくなる。

 まだ言葉になっていないものを、答えとして出さなければいけなくなる。

 その時間ではない、と全員がどこかで感じていたのかもしれなかった。


 もう一つの理由もあった、と洋平は思った。

 踏み込めば、自分たちも踏み込まれることになるからだ。

 徹の「笑えない」の内側に入ることは、同時に自分たち全員の「言えない」の内側に入ることでもある。

 封筒はまだ全員分、缶の中にある。

 誰かの重さに触れる前に、まず今日はここまで、という暗黙の了解が、この場には最初から漂っていた気がした。


 徹は封筒に便箋を戻し、缶の横に置いた。

「じゃあ、次は誰か」と言った。

 声はいつも通りだった。

 少し大きくて、少し乱暴で、よく通る声。

「今日は徹だけでいいんじゃないか」と洋平は言った。

「なんで」

「最初だから。一回ずつ消化していこう」

 徹は「そうか」と言って、ぽりぽりと頭を掻いた。

「じゃあ、来週は誰が読む?」という話になり、「くじで決める?」「自主的に手を挙げる方式にしよう」という話し合いが始まった。


 そのまま、その日の集まりは終わった。

 帰り際、洋平は校門のところで徹と並んだ。

 赤いポストが、今日も立っていた。

「ありがとな、最初に読んでくれて」と洋平が言うと、徹は「俺しかいないだろ、そういうの」と笑った。

「そうかもな」

「だいたいいつも、突っ込んでいくの、俺だから」

「そうだったな」

「小六のときも、先生に文句言いに行くのとか、俺だったし」

「そうだったな」

「まあ」と徹は言った。

 少し間があった。

「まあ、な」

 それだけだった。

 洋平は続きを待ったが、続きは来なかった。


 徹は「じゃあ、また来週」と言い、スーツの上着を揺らしながら歩き出した。

 少し肩が下がっていた。

 いつもは無駄に大きく揺れる歩き方なのに、今日は少し小さかった。

 洋平はその背中を見ていた。

 手紙の最後の一文が、頭の中に残っていた。

 ・・三十年後のぼくへ。

 夢、叶えてますか? できてなかったとしても、まあいいか、と思えてますか?


 あの頃の徹は、ちゃんと自分に問いかけていた。

 その問いの答えが、今日、まだ出ていないのかもしれなかった。

 出ていなくて、それでいいのかもしれなかった。

 洋平は紙袋を抱えて、歩き出した。

 春の夕方の風が、少し肌寒かった。

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