第4話 未来への封筒
校門の前に、古い赤いポストが立っていた。
解体工事が始まってから、洋平は毎週このポストを見ていた。
学校のものなのか、昔からここにあったのかもわからない。
錆が浮いて、塗装が剥がれて、それでも集配のシールだけが几帳面に貼られている。
今週も、誰かが手紙を入れていた。
投函口の隙間から、白い紙の端が少しだけ見えた。
洋平は少しの間、それを見てから、校舎の中へ入った。
日曜の朝。
十一人が、三階の教室に戻ってきた。
先週と同じ顔ぶれだ。
誰も欠席しなかった。
由美だけが「寝坊した」と言いながら五分遅れで来たが、ちゃんと来た。
徹は「よっしゃ」と言いながら入ってきた。
何が「よっしゃ」なのかはわからないが、とにかく来た。
机の上に、紙袋が置かれた。
中の缶は、先週と変わらず赤茶けたまま、黙っていた。
「今日、開けるか」
洋平が言う。
沈黙があった。
誰もすぐには返事をしなかった。
先週、「来週は開ける」と全員で決めたはずなのに、いざ目の前にすると、また体が固まる。
「開けよう」と最初に言ったのは、翔太だった。
「俺はもう覚悟できてる。むしろここ一週間、準備してた」
「何を準備したんだ」と洋平が聞くと、翔太は「読まれても恥ずかしくないように、記憶の上書きをした」と真顔で言った。
「そんなことできるのか」
「できない。でも気持ちの問題だ」
全員がまだ笑えなかったが、少しだけ空気が動いた。
缶を、洋平が手に取った。
重い。
三十年分が、金属の中に閉じ込められている。
蓋の合わせ目には、土と錆が固まって隙間を埋めていた。
徹が「マイナスドライバー持ってきた」と言って、カバンから取り出した。
誠が「それ、正式な用途として使っていいのか」と言い、「開けるためだろ、問題ない」と徹が答えた。
「じゃあ、俺が開ける」
洋平は徹からドライバーを受け取り、蓋の隙間に差し込んだ。
少し力を入れる。
硬い。
もう少し。
ギィ、という音がした。
低い、きしむような音。
三十年間閉まっていた金属が、渋々と口を開く音。
洋平はそのまま、ゆっくり蓋を持ち上げた。
ぱかり、と開いた。
音はそれだけだった。
派手なことは何も起きなかった。
爆発もせず、光も出ず、何も変わらなかった。
ただ、古い空気が、すっと外に漏れた。
紙の匂い。
土の匂い。
そして、もう一つ。
うまく言えないが、あの頃の匂いがした、と洋平は思った。
給食室の廊下の匂いでも、体育館の靴の匂いでもなく、もっと抽象的な何か。
三十年前の空気が、缶の中で眠っていたのかもしれなかった。
誰も何も言わなかった。
徹が、鼻の頭を押さえた。
「なんか、やばい。泣きそう」と言って、「なんで」と由美が言い、「わかんないけど、なんか」と徹が返した。
浩二が「においがするな」とぽつりと言った。
「何の匂いかはわからないけど、なんか、した」
「した」と翔太が言った。
「した」と洋平も言った。
四人が同時に言って、少し笑えた。
笑えたことで、また少しだけ楽になった。
缶を開けるという行為が、ただの作業ではなかったことを、全員がわかっていた。
三十年という時間を、手で開けたのだ。
中に、封筒が入っていた。
三十通。
それぞれの大きさが、微妙に違っていた。
便箋を三つ折りにした封筒、キャラクター柄のポチ袋のような小さいもの、几帳面に四角く折り畳んだ紙、包装紙を切って作ったらしい手作りのもの。
三十年前の小学生が、それぞれ家から持ってきたものを封筒代わりにしたのだろう。
全体的に、黄ばんでいた。
色はくすんでいるが、形は保たれていた。
洋平は缶を逆さにして、机の上に封筒を全部出した。
三十通が散らばった。
表に書かれた字が見える。
大きく、ゆがんだ字。
まっすぐ書こうとして失敗した字。
丁寧に書きすぎて棒みたいになった字。
どれも間違いなく、十二歳の子どもの字だった。
「三十年後のぼくへ」
「三十年後の私へ」
「みらいの石川翔太へ」
「未来の(大人の)ぼくへ」・・括弧書きで注釈を入れているのが誰かは、すぐわかった。
浩二だ。
それぞれが、自分の名前を探した。
見つけた瞬間、誰も手を伸ばさなかった。
自分の封筒を前にして、全員が止まった。
「・・」
「・・」
誰も何も言わなかった。
沈黙が、教室をまた満たした。
今度は悲しさからではなく、正体のわからない恐怖から来る沈黙だった。
自分が書いた、十二歳の自分が書いた言葉が、目の前に封をされたまま置かれている。
十二歳のあの子は、今の自分を知らない。
今の自分が、どんな四十二歳になったかを知らないまま、夢だけを書いた。
その手紙を開けることは、あの子に「今の自分」を見せることだ、と洋平は思った。
自信を持って見せられるかどうか、まだわからなかった。
さくらは、自分の封筒を机の端に少しずらした。
触れなかったわけではなく、ただ、少し置いておきたかった。
中に何を書いたか、輪郭は覚えている。
「先生みたいな人になりたい」と書いた。
その「先生みたいな人」が今は亡くなっていて、自分は教師になっていて、なれたのかどうかはまだわからない。
開ける前に、もう少し考えたかった。
美穂は、自分の名前を書いた字を見ていた。
「田中美穂」という字が、丁寧すぎるくらい丁寧に書いてある。
あの頃、自分はそういう子だった。
丁寧に、丁寧に、何でもやって。
それが今でも変わっていない。
娘はそれが息苦しかったのかもしれない、とふと思った。
封筒には関係のない話だったが、なぜか思った。
翔太は、自分の封筒に書いた「みらいの石川翔太へ」という字を見ていた。
「みらい」をひらがなで書いていた。
あの頃、漢字で書くことを思いつかなかったか、あるいは「未来」という漢字が難しかったか。
どちらでもいい。
ひらがなで書いた「みらい」の方が、なんとなく遠くに感じた。
「怖い」と由美が正直に言った。
「わかる」と達也が返した。
「でも開けないと意味ないよな」と浩二が言い、「わかってる」と由美が言い、「でも怖い」と続けた。
徹が自分の封筒を手に取り、表と裏を確認して、また置いた。
「なんか、ちょっと重い」
「封筒が?」
「違う。意味が、重い」
美穂が静かに言った。
「いつかにしましょう。今日じゃなくてもいい気がして」
「じゃあいつにする」
「来週でいい?」
「来週も、来週になりそうで」
誠が言った。
珍しく、ふっと笑った。
「まあ、そうなるな」と洋平も言った。
封筒を、また缶に戻すことになった。
一枚ずつ、確認しながら入れていく。
浩二のもの、徹のもの、さくらのもの、誠のもの・・三十枚を順番に数えながら、洋平は缶の中を確認した。
二十七、二十八、二十九、三十。
三十枚。
入った。
でも、まだ缶の底に何かあった。
もう一枚だった。
他の封筒より薄く、サイズが少し小さい。
表は白いまま。
宛名が、なかった。
洋平は手を止めた。
「・・これ、誰のだ」
声が出た。
みんなが覗き込んだ。
「宛名なしじゃん」と徹が言った。
「誰これ。書き忘れたのか?」
「書き忘れじゃないと思う」
さくらが言った。
「字がない。名前だけじゃなくて、何も書かれてない。裏も」
洋平は封筒を持ち上げた。
表も裏も、真っ白だった。
薄い紙で、中に何かが入っているのはわかる。
折り畳んだ紙の気配がある。
だが、誰のものか、誰に向けたものか、何も書かれていない。
「先生のじゃないか」
翔太が言った。
車椅子の上から、静かに言った。
「先生が入れたんじゃないかな。俺たちに内緒で」
教室が、しんとなった。
「開けていいの?」
由美が続けた。
声が、少し低くなっていた。
誰も答えなかった。
「もし先生が書いたとしたら」と誠が言った。
静かな声で、いつもの刑事口調ではなく、ただの四十二歳の男の声で。
「三十年経って、俺たちが開けることを、知ってたのかな」
「知ってたんじゃないか」と翔太が言った。
「だから入れた。いつか開けてくれるって」
「信じてたんだな」
「信じてた。三十年後に全員が集まって、開けることを」
浩二が「すごいな先生」と言った。
「俺、三日後のことも信じられないのに」
「お前が特別だ」と徹が言い、「そうかも」と浩二が返した。
笑いが少し起きた。
でも長続きしなかった。
みんなが封筒に目を戻した。
洋平は封筒を持ったまま、しばらくその感触を確かめていた。
薄い。
中身は一枚か、二枚か。
先生の字が、中に折り畳まれているのかもしれない。
あの太く乱暴な、でも温かみのある字が。
あの字で、何かが書かれているのかもしれない。
でも、今日ではない、と洋平は思った。
今日開けることは、何か違う気がした。
自分の中の何かが、まだその準備ができていないと言っていた。
先生への言えなかったことが、まだ言えていないまま残っている。
それが残ったまま開けるのは、何か順序が違う気がした。
「今日は、やめておこう」
洋平は言った。
「みんなの封筒と一緒に、いつか開ける。それまでは、このままにしておく」
誰も反対しなかった。
誰も「でも」とも言わなかった。
宛名のない封筒は、他の三十通と一緒に、缶の中へ戻された。
蓋を閉める。
ギィ、という音がまた鳴った。
今度は少し軽かった。
開けるよりも、閉める音の方が、静かだった。
帰り際、洋平は一人で校門の前に立った。
赤いポストが、朝と同じ場所にあった。
錆びて、剥がれて、それでも消えずに立っている。
誰かの手紙が、中で待っている。
洋平は、宛名のない封筒のことを考えた。
先生は、あの封筒に何を書いたのだろう。
宛名を書かなかったのは、誰か一人に届けるためじゃなかったからか。
あるいは、全員に届けたかったから、誰の名前も書けなかったのか。
それとも・・まだ思いつかない、別の理由があるのか。
今はわからない。
洋平は紙袋を抱え直し、歩き出した。
背中に、赤いポストが立っていた。
先生への言えなかったことが、また少しだけ重くなった気がした。
でも、その重さは悪いものではなかった。
手紙というのは、時間をかけて届くものだ、と洋平は思った。
三十年かかることもある。




