第3話 先生のいない出席簿
教室に来て、一時間が過ぎた。
誰も帰らなかった。
そういう話ではなかった。
「今日はここで解散しよう」と洋平は言ったのだが、誰も動かなかった。
徹が「もう少しいていいよな」と言い、由美が「別に急いでないけど」と言い、浩二が「帰りたくないわー」と素直に言った。
誠は黙ったまま壁際に立っていたが、それは帰りたくないのか帰り方がわからないのか、どちらとも判断がつかなかった。
気がつけば、誰かが携帯の写真を見せ合い、誰かが昔の話をしていた。
「運動会で徒競走、いっつも俺最下位だったよな」と浩二が笑うと、「お前、走り方がおかしかったもんな」と徹が言い、「どうおかしいの」と由美が聞き、「腕が動いてなかった。足だけ動いてた」「ペンギンみたいだったよ」「言いすぎだろ」というやりとりが始まった。
洋平はそれを聞きながら、ぼんやりと思った。
この感じを、もっと続けていたい、と。
笑っている場合ではないかもしれない。
先生のこと、まだ言っていない。
だが、言いたくなかった。
もう少し、このままでいたかった。
「そういえばさ」
徹が言った。
「佐々木先生、来ないのか。誰か連絡した?」
教室が、静かになった。
徹は気づいていなかった。
気づかずに続ける。
「あの人、絶対喜ぶよ。俺たちがこうして集まったって知ったら。当日、缶を開ける時に来てもらったら面白くない? 呼ぼうよ、洋平」
「・・徹」
洋平が言った。
「うん?」
間があった。
「先生は、十年前に亡くなった」
静寂が、教室を埋めた。
ガガガ、と遠くで工事音がした。それだけが聞こえた。
「・・え」
徹の声が、小さくなった。
「病気で。五十七歳だったらしい」
「・・知らなかった」
知らなかった、と誰もが思った。
言葉に出したのは徹だけだったが、それは全員の声だった。
由美が口元を手で覆った。
美穂の目が、わずかに赤くなった。
翔太は下を向いた。
さくらが静かに目を伏せた。
誠は正面を向いたまま、瞬きをした。
浩二だけが、しばらく立ったまま、何かを言おうとして、言えなかった。
いつも喋り続けている浩二が、言葉を出せないでいた。
洋平は続けた。
「廃校の話を進める中で、知った。退職後に発症して、入院して・・三年かけて」
「・・そうか」
誰かが言った。
誰だったか、あとで思い出せなかった。
「知らなかったな」
もう一度、誰かが言った。
三十年という時間は、人を遠くに連れて行く。
だから知らなかった。
別れてから、それぞれが自分の時間を生きていた。
その間に、先生は生きて、病んで、死んでいた。
三十年という時間のどこかに、そういうことが起きていた。
洋平の頭の中に、いくつかの映像が浮かんだ。
授業中、黒板を向いたまま話し続ける先生の背中。
声はいつも、教室の端まで届いていた。
いや、廊下まで届いていた。
隣のクラスから「またうるさい」と壁を叩かれたことが一度あった。
先生は「向こうが静かすぎるんだ」と言って、また大きな声で笑った。
さくらは、教師になったいきさつをぼんやり思い出していた。
佐々木先生を見ていて、自分もああいう人間になりたいと思った。
なれたかどうかは、まだわからない。
先生に聞きたかったことが、いくつかあった。
美穂は、ずっと前を向いたまま、先生が参観日に言った一言を思い出していた。
「お母さん、この子は大丈夫ですよ。優しい子です」。
あの言葉の意味が、今になってようやくわかる気がした。
誠は、何かを言おうとして、口を閉じた。
先生に一度だけ放課後呼ばれ、「お前は正しすぎるのが欠点だ」と言われたことがある。
当時は意味がわからなかった。
今は、わかりすぎるくらいわかる。
「・・職員室、まだあるよな」
沈黙を破ったのは浩二だった。
「あるけど、何が」
「先生の、何か残ってないかな」
誰も反対しなかった。
洋平も、止めなかった。
「行ってみる」
浩二は立ち上がり、教室を出ていった。
残った十人は、しばらく黙っていた。
徹が「俺、知らなかったの、俺だけか?」と言うと、「俺も知らなかった」と達也が言い、「私も」と麻衣が言い、「みんな知らなかったんじゃないか」と洋平が言った。
「先生、怖かったけどな。なんか」
徹がぽつりと言った。
「怖かったね」と由美が返した。
「でも怖いのに、なんか好きだった。変な先生だった」
「声がでかかったな」
「でかかった。廊下まで聞こえてた」
「「静かにしろ!」って叫んでる自分が一番うるさいって気づいてなかったよな」
くすくすと、笑いが起きた。
引き出しの奥から出てくるような、少し苦い笑いだった。
「でもさ」
翔太が言った。
車椅子の上から、窓の方を向いたまま。
「あの人、名前の呼び方、一人ずつ違ったよな。声の感じが」
「・・そうだっけ」
「そうだよ。翔太を呼ぶときと、洋平を呼ぶときと、徹を呼ぶときと、微妙に違った。全員を呼んだことがあるから、俺は覚えてる。ちゃんと見てたんだと思う。一人ずつ、ちゃんと見て、呼んでた」
誰も何も言わなかった。
翔太の言葉が、教室の中にゆっくり広がった。
「俺を呼ぶときは」と徹が言いかけて、止まった。
「・・なんか、やわらかかったな。怒ってるときでも」
「そうだったな」と洋平は言った。
答えながら、思い出していた。
先生が自分の名前を呼ぶとき・・「吉田」でなく「洋平」と呼ぶとき・・があった。
授業でもなく、怒るときでもなく、廊下ですれ違いざまに呼ぶ声。
あの呼び方が好きだった。
自分が、ちゃんとそこにいると思えた。
浩二が戻ってきた。
手に、何かを抱えていた。
「あった」
薄い、藍色の表紙の冊子。
角が折れ、表紙に少しシミがある。
「職員室の棚に、まだあった。六年二組の出席簿」
誰もが身じろぎした。
「先生の、字だな」
洋平が言った。
浩二が差し出す。
洋平が受け取った。
表紙には「六年二組 出席簿」とだけ書かれていた。
字は、太く、やや乱暴で、それでいて妙に温かみがある。
佐々木先生の字だ、と洋平は思った。
三十年ぶりに見る字だったが、そうだとわかった。
人の字には、声が残る。
洋平の視線が、少し揺れた。
だが誰も気づかなかった。
「・・開けていいか」
確認のように言うと、全員が静かに頷いた。
洋平はゆっくり、表紙をめくった。
最初のページ。
細かく区切られた出席の欄。
縦に名前、横に日付。
名前の欄には、三十人分の名前が並んでいた。
小林浩二。
鈴木徹。
田中由美。
石川翔太。
吉田洋平。
三十年前の自分の名前を、他人の名前みたいに見た。
「読んでみようか」
さくらが言った。
「先生みたいに」
いつも授業の最初に先生がやっていたことだ。
出席確認。
名前を呼ぶ。
返事をする。
何の意味もないような、でも毎朝繰り返された儀式。
「読む?」と洋平が聞くと、さくらが「私が読む」と手を差し出した。
さくらは教師だ。
毎朝、誰かの名前を呼んでいる。
だから任せることにした。
さくらは出席簿を受け取り、立ち上がった。
少し間を置いてから、声を出した。
「小林浩二」
間があった。
「はい」
浩二が、反射的に答えた。
本人が一番驚いていた。
「いや、なんか、出ちゃった」と言って照れた。
さくらは続けた。
「鈴木徹」
「あ、はい」
徹も、答えた。
あまりにも自然に。
「田中由美」
「は、はい」
由美が答えた。
照れ笑いをしながら。
「なんで答えてるんだろう」と自分で言った。
「吉田洋平」
「はい」
洋平の口から出た。
出席を取られるたびに体が動いていた、あの感覚。
条件反射という言葉があるが、これはもっと深いところに刻まれているものだ、と洋平は思った。
習慣より深く、記憶より手前にある、何かに。
さくらは読み続けた。
一人ずつ、丁寧に。
名前が読まれるたびに、「はい」が返ってくる。
完全には揃っていない・・今日来ていない同級生の名前は、静かに空白になった・・が、十一人の「はい」が、古びた教室に積み重なっていった。
「石川翔太」
翔太が、車椅子の上から、静かに言った。
「はい」
その返事は、他より少し遅かった。
遅かったが、はっきりしていた。
さくらの声が、最後の名前に近づいていった。
「・・」
ひとつの名前の前で、さくらの声が、少しだけ止まった。
全員が、気づいた。
直樹の名前があった。
クラスの誰もが、その名前を覚えていた。
誰よりも大声で笑い、誰よりも泣き虫だった少年。
二十年前、事故で亡くなった。
さくらは続けた。
「三原直樹」
誰も答えなかった。
当然だった。
でも、その沈黙は、欠席の沈黙とは違った。
答えたかったのに答えられない、という種類の静けさだった。
教室に、しばらく静寂が満ちた。
洋平は、直樹のことを思い出した。
いつも笑っていた。
いや、笑っているか泣いているかのどちらかで、中間がなかった。
給食のデザートにプリンが出た日は大声で喜び、転んで膝を擦り傷にしたときは本気で泣いた。クラスの誰かが悲しいと、なぜかもらい泣きをした。
理由を聞くと「なんかわかんないけど、つられた」と言った。
そういう子だった。
あの子が二十年前に亡くなって、今この教室にいないことが、まだどこかで信じられない気がした。
由美が小さな声で言った。
「直樹くんって、声が大きかったよね。先生と張り合えるくらい」
「張り合ってたよ」と徹が言った。
「「先生うるさい!」って言い返して、先生が「お前もうるさい!」って言い返して、二人でうるさかった」
「怒られてるのに笑うんだよな、あいつ」
「先生も最終的に笑ってたな」
「そう。先生、直樹には勝てなかった」
また、小さな笑いが起きた。
泣きながら笑っているような、そういう笑いだった。
「・・先生、こういうの、毎朝やってたんだな」
徹がぽつりと言った。
「毎朝ね」と由美が言った。
「三十人の名前を、毎朝」
「毎朝ね」
「三十年後に再会するとは思ってなかっただろうな、先生も」
「思ってないよ、そりゃ」
「来るって言ってたけどな」
「来るって言ってたね」
それだけのやりとりだった。
洋平は黒板を見ていた。
浩二が書いた「六 年 二 組」という下手な字が、まだ残っていた。
チョークの白が、少しかすれていた。
出席簿を、洋平はゆっくりと閉じた。
先生の字で書かれた、三十人分の名前。
先生はこれを毎朝手にしていた。
声に出して、一人ずつを確認していた。
それが先生にとって何を意味していたのか、当時は考えたこともなかった。
ただの朝の儀式だと思っていた。
今なら、少しわかる気がした。
先生は、毎朝確認していたのだ。
みんながいる、ということを。
洋平は出席簿を、紙袋の隣に静かに置いた。
錆びた缶と、出席簿が並んだ。
どちらも、佐々木先生に関係するものだ、と洋平は思った。
どちらも、先生がいなくなった後に残されたものだ。
「来週も集まろう」
洋平は言った。
「今度は、缶を開ける」
誰も反対しなかった。
誰も「怖い」と言わなかった。
今はもう、少し違うものを感じていた。
開けなければいけない気がした。
先生が閉めたその缶を。
先生が見届けられなかった三十年を。
翔太が窓の外を見ていた。
空は曇っていた。
桜の枝が、静かに揺れていた。
「先生」
翔太が、小さく言った。
誰に言ったのでも、誰かに聞かせるためでもなく、ただ窓の向こうに向けて、言った。
それだけだった。
でも、それで十分だった。




