第2話 三十年ぶりの教室
六年二組の教室は、三階の一番端にあった。
工事が始まっている棟の反対側だったせいか、解体の手はまだ届いていない。
ドアを開けると、三十年分の埃と静けさが、ひとかたまりになって出迎えた。
洋平は一人で先に入り、教室を見渡した。
黒板は残っていた。
白いチョークの跡が、薄くいくつか残っている。
誰かが書いたのか、消し忘れたのか、
それとも三十年間そのままなのか、判断がつかない。
机と椅子は、倉庫に運ばれたのか、半分ほど消えている。
残ったものは壁際に雑然と積まれていた。
窓ガラスには亀裂が走り、カーテンは色を失って、ただぶら下がっている。
知っている場所なのに、知らない場所みたいだ、と洋平は思った。
記憶の中の教室は、もっと広かった。
チョークの匂いがして、誰かがずっとうるさくて、黒板には誰かが書いたくだらない落書きがあって、先生が入ってくるたびに全員が起立した。
あの頃の自分には、この教室が世界のすべてだった。
今は、ひどく狭く見えた。
廃墟というより、抜け殻、という感じがした。
「着いた着いた! 待たせた?」
徹が来た。
今日もスーツだった。
どうやら仕事を半日休んで来たらしい。
ネクタイだけ車の中で外してきたのか、シャツの第一ボタンが開いている。
それが妙に似合っていなかった。
「お前さ、開いてるシャツって似合わないな」
「うるさい! 崩してる感出したくて!」
「出てない」
続いて、由美が来た。
今日はカジュアルな格好で、それが昨日より十歳若く見えた。
「教室はどこ?」と聞くので「三階」と答えると、「階段、ガタガタじゃない。怖い」と言いながらも自分でさっさと上がっていった。
相変わらず気が強い。
三十分もしないうちに、玄関の外が賑やかになってきた。
洋平が呼びかけたのは、連絡先を持っていた十四人。
「来れたら来て」と伝えると、思った以上に返事が来た。
「行く」「絶対行く」「今の住所送って」「仕事抜け出す」。
三十年の沈黙のあいだ、みんな、待っていたのかもしれなかった。
最終的に、十一人が集まった。
浩二が来た。
がっしりした体格のまま、ただ全体的に日焼けして、笑顔の皺が増えていた。
手の甲に古い傷跡がある。「お前ら全然変わってないな!」と言いながら教室に入ってきたが、それはどう見ても社交辞令だった。
全員が全員、どこかで三十年を生きてきた顔をしていた。
美穂が来た。
真面目そうな格好で、バッグをきっちり両手で持って、丁寧にお辞儀をしながら入ってきた。
昔から礼儀正しかった。
ただ、目元に疲れが滲んでいた。
無理して笑っているような、微妙な表情。
洋平は気になったが、何も言わなかった。
さくらが来た。
教師らしい落ち着いた雰囲気になっていた。
「来てよかったのか、ちょっと不安だったけど」と言い、「来てよかったよ」と洋平が答えると、少し表情が和らいだ。
誠が来た。
刑事だけあって、眼光だけは鋭いままだった。
他の全員より三十センチくらい背筋が伸びている。
「久しぶり」とだけ言って、静かに部屋の隅に立った。
達也が来た。
美容師らしく、今どきのヘアスタイルに、きれいめの私服。
教室に入ってすぐ由美と「わあ!」と言い合っていた。
よく喋る。
昔と変わっていない。
麻衣が来た。
達也とほぼ同時に来たのだが、二人のあいだには二メートルほどの距離があった。
互いに気づいていないはずがないのに、ひとことも声を交わさなかった。
洋平は何も言わないことにした。
薮蛇になる可能性が高い。
翔太が来た。
車椅子だった。
付き添いの妻とともに来て、入口のところで「廊下、段差があるから手伝って」と徹に声をかけた。
徹が「おう!」と明るく動いた。
翔太は車椅子の上から教室を見渡し、「広いな」と言った。
洋平たちと同じ目線の高さではなかったが、その言葉には静かな感慨があった。
翔太を見て、みんなが一瞬だけ静かになった。
「なんだよ、そんな顔するな」
翔太がすぐに言った。
「来たかったから来た。それだけだ。変な空気にするな、お前ら」
徹が「そうだそうだ」と言い、由美が「ほんとね」と言い、場の空気がまた動き始めた。
翔太は何かを察して笑っていた。
そういう笑い方が、昔からうまかった。
十一人が、教室の中に集まった。
最初は、大人の集まりだった。
名刺が出た。
名刺が出てしまった。
洋平は内心で「しまった」と思ったが、止める理由もなかった。
誠が「刑事部捜査一課」と書かれた名刺を出すと、達也が「本物だ!」と声を上げ、和也が「IT企業の社長」と書かれた名刺を静かに出した。
さくらは「中学校教諭」という肩書きの名刺を少し申し訳なさそうに出した。
浩二は名刺を持っていなかった。
「俺、名刺ないんだよね」と言って、代わりに飴を一粒、みんなに配り始めた。
由美が「名刺代わりに飴配る人、初めて見た」と言い、それで少し笑いが起きた。
それでも、最初はまだ、大人の顔をしていた。
敬語まじりの言葉。
ぎこちない笑い。
誰かが「お変わりなく?」と言い、誰かが「いやあ、色々と」と返す。
同窓会のテンプレートのような会話が、あちこちで小さく起きていた。
三十年という時間は、人と人のあいだに、礼儀という名の透明な壁を作る。
そのとき、事件が起きた。
誰かが椅子を動かした。
壁際に積まれた椅子を一つ持ってきて、ある場所に置いた。
どこでもよかったはずなのに、その人は窓際の、少し後ろの方に置いた。
それを見た徹が、なぜか後ろの方に椅子を持っていった。
誠が、静かに真ん中あたりへ。
美穂が、前の方の端へ。
洋平が、気づいたら黒板の近く、斜め前の席に座っていた。
誰かが言い出したわけではなかった。
誰も「昔の席に座ろう」とは言っていない。
それなのに、十一人が椅子を並べていく過程で、なんとなく、三十年前の配置に近いものができあがっていた。
完全に一致はしていないが、大まかな位置関係は、あの頃のままだった。
翔太は車椅子のまま、窓際の一番後ろのあたりに停まっていた。
あの頃の席だ。洋平は覚えていた。
翔太はいつも窓の外をよく見ていた。
「なんか」
由美が言った。
「自然と昔の席になってない?」
全員が、自分の位置を確認した。
静かな笑いがあった。
照れ臭いような、それでいて嬉しいような笑い。
「体が覚えてるんだな」
浩二がしみじみ言った。
「すごいな、人間の体って」
「すごいとかじゃなくて、お前が昔から後ろに座りたがってただけだろ」と徹が言い、「そうだっけ? そうかも」と浩二が言い、またくだらない笑いが起きた。
「ところで、達也は今、何してんの?」
由美が聞いた。
「美容師。自分の店、持ってる」
「すごい!」
「全然すごくない。小っちゃい店だし。でも好きなことやれてるからいいかな」
「麻衣は?」
「アパレル」
全員が少しだけ緊張した。
達也と麻衣のあいだに二メートルの距離がある。
由美はかまわず続けた。
「二人ともまだ会ってんの?」
「会ってない」と達也。
「会ってない」と麻衣。
ぴったり同時だった。
間があって、みんなが笑った。
麻衣も小さく笑った。
達也も笑った。
「まあ、そういうことです」
達也がひとこと言い、それで終わった。
言い訳もせず、弁解もせず。
その潔さが、かえって妙な温かみを出した。
「達也、今日来てくれてよかった」と美穂が言い、「俺もそう思う」と誠が言った。
誠が感情的なことを言うのが珍しかったのか、全員が誠の方を見た。
誠は照れたように前を向いた。
その瞬間、誰かが言った。
「達也、お前昔からトー君だったよな」
徹だ。
「トー君?」達也が笑う。
「久しぶりに聞いた、それ」
「洋平はヨー君だったよな、そういえば」
「よー君・・」
洋平が呟いたとき、何かが少し開いた感じがした。
あだ名。
その一言で、空気が変わった。
「由美はユミちゃんだったよね」と美穂が言い、「そう! なんか嬉しい」と由美が答えた。
「浩二はコージ」と達也が言い、「シンプルすぎる」と浩二が返した。
「誠はマコちゃんだったよ」と莉子が言うと、「やめろ」と誠が即答した。
笑い声があちこちで上がった。
翔太が「俺はショーちゃんだったな」とのんびり言った。
「ショーちゃん、懐かしい」と誰かが言った。
翔太は「うん」と言って、少し遠くを見た。
洋平はそれを見ていた。
翔太の目線の先には、窓があった。
曇り空。
桜の枝の先端が、かろうじて見えた。
翔太は今、何を見ているのだろう、と洋平は思った。
三十年前、この窓からよく外を見ていた翔太。
あの頃は、いつも空を見ていた気がする。
宇宙飛行士になる、という夢を書いた少年。
それが今ここにいる。
翔太が不意に、洋平の視線に気づいた。
目が合う。
翔太はひとこと言った。
「なんだよ、じっと見て」
「いや、窓の外が気になってるのかと思って」
「ああ。桜、見えるな」
「見えるな」
「・・きれいだな」
「きれいだな」
それだけの会話だったが、洋平は何かを飲み込んだ気がした。
うまく言葉にならないものを、ただ飲み込んだ。
黒板の前に立った浩二が「せっかくだからホームルームしようぜ!」と言い出した。
「なんで」
「せっかくだから」
「理由になってない」
「チョーク、まだあるぞ!」
浩二は黒板の端にあった折れたチョークを見つけ出し、大きな字で書いた。
「六 年 二 組」
下手な字だった。
「お前、字下手だな。昔から下手だったけど」と徹が言い、「うるさい、味がある」と浩二が返した。
誰かが小さく笑った。
誰かが黙っていた。
洋平は席に座ったまま、黒板を見ていた。
六年二組。
この教室に三十人がいた。
毎朝出席をとられ、給食を食べ、掃除をして、体育で走って、帰り道で喋った。
先生の怒鳴り声と笑い声が、等分ずつここに響いていた。
あの頃は、終わることなんて考えていなかった。
教室は毎年続くもので、クラスは毎年あるもので、佐々木先生はずっとそこにいるものだと思っていた。
でも全部、終わった。
卒業という名前で、きれいに終わった。
そして三十年が過ぎた。
再び、ここにいる。
洋平は手元の缶を見た。
紙袋から少しだけ顔を出している、錆びた缶。
この中に、みんなの「三十年前」が入っている。
「よし」
洋平は言った。
「来週また集まろう。今日はここで解散でいい。みんな、来てくれてありがとう」
誰かが「来てよかった」と言った。
誰かが「また来たいな」と言った。
誰かが「来週も来る」と言った。
教室の外で、風が吹いた。
古いカーテンが、ゆっくりと揺れた。
三十年前も、こんなふうに揺れていたのだろうか、と洋平は思った。
きっとそうだ、と思うことにした。




