第1話 校庭の桜の下で
三十年。
廃校を見届けるための出張が、市役所の若い連中には「楽な仕事」に見えるらしい。
洋平は今朝、課の後輩に「いいですねえ、外回りで」と言われた。
「いいな」という言葉の裏側に「羨ましい」という感情は一ミリもなく、純粋に「面倒な仕事から解放されてよかったですね」という意味だと、洋平は理解した。
二十年の公務員生活で、その種の言葉の解読には自信がある。
解体工事が始まった校庭に立ち、洋平は小さくため息をついた。
目の前に、あるいは「あった」と言うべきか・・母校がある。
壁はひび割れ、塗装はあちこちで剥がれ落ち、体育館の屋根には穴が開いていた。
重機がコンクリートの柱を殴るたびに、ガガガガという音が腹の底まで響く。
砂埃が舞い上がる。
その向こうに、うすいピンク色が見えた。
桜の木だった。
校庭の真ん中に、一本だけ。
重機のアームを避けるように、花びらが舞い散っていた。
三十年前、幹によじ登って佐々木先生に怒られていたあの木だ。
今は誰も登らない。
ただ黙って、工事の砂埃を浴びながら立っている。
洋平は少しの間、それを見ていた。
四十二歳。
市役所職員。
廃校利用プロジェクト担当。
独身。
趣味はロードバイク。
休日に川沿いを走るが、目的があるわけでもなく、達成感を得るでもなく、ただ走っているだけだ。
帰宅すると疲れていて、それを「運動した」という充実感に変換して眠る。
その技術を三十代で習得した。
ため息と腰痛が、最近増えた。
「洋平さーん!」
声がして振り返る。
ヘルメットを被った現場監督が、小走りで近づいてきた。
手には泥まみれのスコップ。
もう片方の腕に、なにかを抱えている。
「出ましたよ。お宝です」
「お宝って言い方、やめてもらえませんか。違法な取引みたいで」
「いやあ、桜の根元を掘り返してたら、カコンって」
どさり。
洋平の足元に、それが置かれた。
赤茶けた塊。
土を払い落とす。
見覚えのある形。
錆びついた、クッキーの空き缶だった。
洋平は息を呑んだ。
三十年前。
卒業の三日前。
六年二組の三十人が、佐々木先生と一緒に桜の木の下に埋めたもの。
それぞれが「三十年後の自分へ」と書いた手紙を、封をして、缶に入れた。
先生が缶の蓋を閉め、「よし、じゃあ掘り起こすのは三十年後な」と言った。
誰かが「先生も一緒に来てくれる?」と聞くと、先生は「来る来る。絶対来る」と笑った。
・・先生は、来なかった。
「よく原型、留めてましたね」
洋平の声が、少し低くなった。
「ギリギリですよ。あと五年遅かったら、土に還ってましたね」
現場監督はそう言い残し、仕事に戻った。
洋平はしゃがみ込んで、錆びた缶に触れた。
ひんやりとした金属。
ざらざらした赤錆が指先につく。
外側はひどく傷んでいるのに、蓋の合わせ目だけは、なぜかしっかり閉まっている。
記憶の蓋も、案外しぶとく閉まっているものだ、と洋平は思った。
十二歳の夏。
チョークの匂い。
給食のカレーの日だけうるさかった教室。
先生の声。みんなの顔。
自分はなんと書いたのだろう。
思い出せない。
正確には、思い出そうとしていない。
少なくとも「四十二歳で市役所のヒラで、腰痛に悩む独身おじさんになっていますように」とは書いていないはずだ。
もしそんな現実的な十二歳がいたら、むしろ才能だ。
「・・開けるか」
独り言が口から出た。
手は、動かなかった。
怖い。
十二歳の自分が書いた手紙。
夢の純度百パーセントの結晶。
今の自分に、それを受け止める体力があるとは思えない。
胃薬が必要になるかもしれない。
いや、胃が溶けるかもしれない。
洋平は立ち上がり、スマートフォンを取り出した。
道連れが必要だ、と判断した。
一人で開けるのは人道的に問題がある。
画面をスクロールする。
同級生の連絡先は少ない。
年賀状はとっくに途絶えた。
SNSで年に数回「いいね」を押す程度の関係。
それでも洋平は、一つの番号をタップした。
コール音が三回鳴った。
『・・はい、鈴木でございます』
すり減った、少し低い営業ボイス。
「もしもし、徹? 俺だけど。洋平」
電話の向こうで、数秒の間があった。
それから鼓膜が破れそうな大声が響いた。
『うおっ!? 洋平!? まじで!? 誰!?』
「だから洋平だって言ってる。六年二組の」
『え、マジか! 三十年ぶりじゃん! どうした!? お金でも借りたいの? 横領でもしたの?』
「なんで俺が犯罪者前提なんだよ」
『だって普通、三十年音信不通の奴から急に電話来たら、詐欺かと思うじゃん!』
「詐欺師は名乗らないだろ」
『じゃあなに? 保険? 宗教?』
「市役所で真面目に働いてるわ」
『あー! 超似合う! お前、昔から公務員顔だったもんな!』
「公務員顔って何だよ」
徹のテンポ。
小学生の頃と一ミリも変わっていない。
洋平の口元が、自然と緩んだ。
「お前は元気そうだな」
『元気なわけないよ! 毎日外回りで頭下げて、週末は少年野球の監督でクタクタだよ。四十過ぎてから肩が上がらなくて、もう引退しようかと思ってる』
「引退って、監督をか」
『そう。って違う、野球の話じゃないのか。どうした、洋平』
洋平は本題を切り出した。
「今日さ、俺、母校の取り壊し現場にいるんだけど」
『え、なくなるの? あそこ』
「うん。そしたら桜の木の根元から、出てきたんだよ」
『・・何が? 徳川埋蔵金?』
「タイムカプセル」
電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。
「俺たちが小六の時に埋めた。あの錆びた缶だ」
沈黙。
「聞いてる?」
『・・聞いてる』
「どうした、急に静かになって」
『・・俺、何書いたっけ。プロ野球選手になるとか、恥ずかしいこと書いた気がする。頼む、洋平。今すぐ燃やしてくれ』
「市役所職員に放火を頼むな」
『証拠隠滅でもいい。埋め戻してくれ』
「もう工事してるから無理だ。夕方、時間あるか? 校門の前まで来い」
『行く。定時でダッシュする』
電話が切れた。
洋平はもう一人、思い浮かんだ。
スマートフォンをスクロールして、由美の番号をタップする。
ワンコールで出た。
『はいはーい!』
テンションが高い。
「もしもし。由美? 洋平だけど」
一瞬の間。
それから、声が一オクターブ半下がった。
『・・あ。洋平くん。・・久しぶりね』
「なんだよ、その温度差は。彼氏からの電話だと思ったか」
『違うわよ。美容院の予約の確認かと思っただけ。彼氏は三年いないわよ。余計なこと聞かないで』
「聞いてないのに自分から言うな」
『で、何? 宗教の勧誘なら切るわよ』
「なんで俺が宗教勧誘してることになってるんだよ。タイムカプセルが出たんだ」
『・・は?』
経緯を説明する。
由美は「えー!」と声を上げ、「どうしよう、私『ハリウッドに行きます』とか書いてたら絶対に恥ずかしい」と言った。
「書いてそうだな」
『笑い事じゃないのよ! ハリウッドのハの字もないわよ!』
「俺も市役所だ。どっこいどっこいだ」
『あんたは市役所が似合ってるからいいの! 私はハリウッドに行くはずだったの!』
理不尽だな、と洋平は思ったが、口には出さなかった。
二十年の公務員生活で培った技術だ。
「夕方、校門の前に来れるか? 徹も来るってさ」
『わかった。行くわよ。自分の手紙だけ先に回収して、シュレッダーにかけるわ』
「公的な器物を私的に使うな」
夕暮れ前の空が、茜色に変わり始めていた。
洋平は土を払った缶を紙袋に入れ、校門の前で待った。
最初に来たのは徹だった。
スーツを着て、少し息を切らしながら走ってきた。
かつては学年で一番足が速かったはずだが、今は三十メートルを全力で走った後、腰に手を当てて「いてて」と言っている。
髪は少し薄くなり、腹は順調に育っていた。
しかし、その無駄に大きい声と、落ち着きのない手の動きは、三十年前とまったく同じだった。
「洋平!」
「おう。・・なんか、順調に中年になってるな」
「お前こそシュッとしすぎだろ! 腹立てろよ! その細さは腹立てろよ!」
「どういう怒り方だ」
「お前みたいな奴、どうせ休日にロードバイクとか乗ってんだろ」
「・・なんでわかった」
「独身市役所職員がシュッとしてたら、全員ロードバイクに乗ってる法律があんだよ!」
そこへ、ヒールの音が近づいてきた。
「ちょっと、声でかすぎ。周り見て」
由美だった。
ブランド物のバッグ。
きれいに巻かれた髪。
化粧はバッチリ。
しかし、目尻にわずかに刻まれた小じわが、確かに三十年という時間を証言していた。
「うわ、由美!」
徹が目を丸くする。
「全然変わってない! ていうか昔より派手になってない?」
「褒め言葉として受け取るわ」
「いや、褒めてんだけど」
「わかってる。でもそういう言い方するのやめて」
由美は洋平に向き直り、紙袋をちらりと見た。
「ブツはそれ?」
「だからそのヤバい取引みたいな言い方はやめてくれ、本当に」
洋平は、紙袋から錆びた缶を取り出した。
夕日を受けて、それは奇妙な存在感を放っていた。
赤茶けた表面。
土のこびりついた蓋。
それでも確かに、三十年前に手で触れたものだ。
徹と由美は、黙って立ち尽くした。
「・・本物だ」
徹がかすれた声で言う。
「めちゃくちゃ錆びてる・・」
由美が指先でそっと缶の縁に触れ、次の瞬間、手を引っ込めた。
「なんか、気持ち悪くなってきた。見てたら急に」
「わかる。俺も今、胃薬が欲しい」
徹が腹を押さえる。
蓋の隙間から、何か漏れ出してくるような気がした。
土の匂いだけではない、三十年前の空気が。
十二歳の自分たちの声が。
先生が「よし」と言ったあの午後が。
「・・開ける?」
洋平が聞いた。
徹と由美が同時に首を横に振った。
「無理!」
「心の準備が全然できてない! 最低でもビール二缶は飲まないと無理!」
「お前・・」
ため息をついたが、実はホッとしていた。
自分も一人では開ける気がしなかったからだ。
でも、それは言わなかった。
「とりあえず、今日は解散にしよう」
洋平は缶を紙袋に戻した。
「来週の日曜、みんなに声をかけてみる。集まれる奴だけでいいから、三十年ぶりの同窓会にしよう。開封式も兼ねて」
「みんなに?」
徹の目が少し輝く。
「翔太とか、浩二とか?」
「連絡先があるやつ全員に。来れる奴だけ来ればいい」
「達也と麻衣も呼ぼうよ」
由美が口を挟む。
「あの二人、どうなったか知ってる?」
「知らない。どうなった」
「結婚して、数年前に離婚したって聞いたわよ」
「え。マジで?」
「同じ職場で働いてた子から聞いた。泥沼だったらしいけど」
「じゃあ呼ぼう」
「なんで即決なのよ」
「面白そうだから」
「性格悪い」と由美が言ったが、笑っていた。
徹が「最高じゃん、それ」と手を叩く。
「呼ぼう、絶対呼ぼう。地獄絵図になりそう。見たい」
笑い声が、誰もいなくなった校庭に響いた。
重機は作業を終えていた。
砂埃が落ち着いて、夕暮れの光が静かに差し込んでいる。
三十年という時間は、確かに顔に痕を刻んでいた。
背負うものも増えた。
膝も腰も、余計なことを言い始めている。
けれど、こうして三人で並んで口を開けば。
ツッコミの角度も、笑いのテンポも。
見事に、十二歳のあの頃のままだった。
洋平は、ふと頭上を見た。
桜の木が、夕日の中に立っていた。
工事の砂埃を被って、枝が少し傷んで、それでも花びらだけは、ちゃんと散っていた。
三十年前も、こんなふうに散っていたのだろうか。
覚えていない。
あの頃は、木など見ていなかった。
ただ走り回り、叫び合い、泥まみれになって先生に叱られるので精いっぱいだった。
桜というのは、見る人間が変わっても、変わらずに咲く。
それがどういう意味を持つのか、洋平にはまだよくわからなかった。
ただ、缶の重みが手の中にあった。
三十年前の自分の声が、この中にある。
どんな夢を書いたのか、覚えていない。
しかし確かに書いた。
何かを信じて、何かを夢見て、この缶に預けた。
その十二歳の自分が、今ここにいる自分を見たら、なんと言うだろう。
・・あまり考えたくない、と洋平は思った。
「よし、来週な」
二人に向けて言うと、徹が「おう」と頷き、由美が「遅刻したら怒るわよ」と言った。
三人で笑って、別れた。
帰り道、職員室の前を通った。
工事中の校舎の中で、そこだけがまだ手つかずのまま残っていた。
半開きのドアの向こうに、夕日が差し込んでいる。
洋平は立ち止まった。
先生は、もういない。
十年前に病気で亡くなった。
享年五十七歳。
訃報を聞いたとき、洋平はしばらく電話を持ったまま、動けなかった。
先生に、言えなかったことがある。
それが何なのか、三十年間、うまく言葉にできないままだった。
ただ、言えなかった、という感覚だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。
洋平は職員室のドアを見つめてから、また歩き出した。
来週、みんなが集まる。
先生と一緒に埋めたあの缶を、みんなで開ける。
それだけが、今できることだった。
抱えた紙袋の重みが、少しだけ温かかった。
校庭の桜が、静かに花びらを落としていた。
三十年前と、同じように。




