第10話 世界一の発明家になります
次の日曜日。
美穂の翌週だった。
みんなが来るとき、少し静かだった。
先週があまりにも重かったから、というのが洋平にはわかった。
悪い意味ではない。
いい意味で、重かった。
でも一週間、その重さを抱えながら日常を過ごしてきた。
仕事をして、飯を食い、電車に乗って、また日曜日になった。
そのくり返しの中で、美穂の「十年間、会っていないんです」という声が、時々、どこかで蘇った人もいたかもしれなかった。
それでも全員が来た。
浩二が一番早く来ていた。
洋平が廊下を歩いてきたとき、浩二はもう席に座っていて、「よ!」と言って手を上げた。
声が先週より大きかった。
わざと大きくしているのが洋平にはわかった。
浩二はそういう人間だ。
重い空気を察すると、まず声を上げる。
うるさいとか空気が読めないとかではない。
そういうやり方で場を支えている。
三十年前もそうだった、と洋平は思った。
運動会の日に転んで泥だらけになったクラスメートのそばで、一番大きな声で笑ったのが浩二だった。
笑うことで、転んだ子どもが泣かずに済んだ。
「今日は俺の番だ」と浩二が言った。
「楽にいこう」
「楽にいけるのか?」と徹が言った。
「いけるいける。俺の手紙は短いから」
「知ってる」と由美が言った。
「先週、ちらっと見えた」
「見るなよ」と浩二が言い、「短いからって見えちゃうんだよ」と由美が返し、少し笑いが起きた。
先週の重さが、少しだけ薄れた。
缶から浩二の封筒を取り出した。
「牧原浩二」と書かれた封筒。
開いた。
一枚だけ、便箋が入っていた。
「一枚か」とさくらが言った。
「一枚です」と浩二は誇らしそうに言った。
便箋を広げた。
「世界一の発明家になります。以上。牧原浩二」
教室に笑いが起きた。
さっきより大きな笑いだった。
「以上!」と徹が言った。
「夢を以上で締めるな!」
「簡潔でいいんだよ」と浩二は言った。
「俺、子どもの頃から短くまとめるのが得意で」
「二十文字で夢を終わらせる子どもがどこにいるんだ」
「ここにいる」
さくらが「ちゃんとした夢が書いてあるじゃないですか。発明家って、素敵だと思います」と言い、由美が「でも、何を発明するつもりだったの?」と聞いた。
浩二は少し考えた。
「決めてなかった」
「決めずに発明家になるつもりだったのか」
「まあ、そういう子どもだったんだよ。細かいことは後で考えよう、みたいな」
「後で考えてどうなったんだ」と徹が聞く。
「後で考えなかった」
また笑いが起きた。
「うちのやつがな」と浩二は続けた。
「去年、その手紙見て、『十二歳でこれしか書けないのか』って言ったんだよ。俺が一生懸命書いた夢の話を聞いてないし」
「奥さんに見せたのか」
「見せたんじゃなくて、テーブルに置いてたら読まれた。美穂さんと同じパターン」
「家族に読まれるパターンが多いな」と洋平は言った。
「多いな」と徹が言い、「そういうもんかもな」と浩二が言い、また笑いが少しあった。
「工場、倒産したんだろ」と洋平が言った。
浩二がこちらを向いた。
「知ってたか?」
「どこかで聞いた記憶がある」
「あー。したよ、倒産」と浩二は言った。
あっさりしていた。
あっさりしていたが、そのあっさりさの分量が、洋平には少し気になった。
「いつ頃?」
「四十三のときだから、十年くらい前か。金属部品の加工がメインでな、下請けでやってたんだよ。バブル後からずっと単価が下がっていって、取引先も減っていって。あるとき、もう無理だと思った」
「そのとき、どうした」
「あっさりしたもんだよ、倒産って」と浩二は言った。
「長くかかるかと思ったら、手続きが終わったら翌朝から普通に起きて、飯食って、何もすることがなくなった。それだけ」
「一年くらい、何もしなかったと聞いたが」
「何もしなかった。でもな、何もしないのって体にくるんだよ。半年くらいで腰が痛くなってきて、医者に行ったら、何かやりなさいって言われた。何をやればいいんだって話だけど」
「清掃の仕事は、どうやって見つけたんだ」
「ハローワーク。年齢的に厳しいとは思ってたけど、資格不要で朝早いのが自分には合ってた。早起きは工場のときからの習慣だったから」
「今は、続いてるのか」
「続いてる。早朝からビルの廊下とか窓を拭いて、午前中で終わる。午後は暇だから、ガレージで工作してる」
「工作?」と由美が聞いた。
「おもちゃ作り。孫のための」
由美が「それが廃材の話か」と言った。
「ビルの清掃やってると、廃材が出るんだよ」と浩二は言った。
ここから先は、声のトーンが少し変わった。
話したい話題になったときの声だ、と洋平は思った。
「工事の残りとか、交換した部品とか。業者さんが持ち帰って捨てるやつを、もらえますかって聞いて。空き缶とか、パイプの継手とか、木の端材とか。もらってきて、家のガレージで加工する」
「何を作るんだ」
「孫が電車好きだから、木でトンネル付きの線路を作ったり。缶でトラックを作ったり。パイプの継手を組み合わせてロボットを作ったり。先月は駅ビルを作った。エレベーターが動く駅ビル」
「動くのか」と誠が壁際から言った。
珍しく前のめりになっていた。
「動く。内部にゴムバンドを通してあって、引っ張ると箱が上下する仕組み。孫が一番気に入ってるやつ」
「それ、発明じゃないか」と由美が言った。
浩二は少し笑った。
「まあ、発明っちゃ発明だな」
「奥さんはなんて?」
「最初は、また変なもん持ってきてって言ってた。ガレージが廃材だらけになるから。でも孫が喜ぶから、今はもう何も言わなくなった。それどころか、じいじに頼めばおもちゃ買わなくていいって言い出して。孫のおもちゃ代が浮くから喜んでるらしい」
「おじいちゃんをなんだと思ってるんだ」
「廃材加工機だと思ってる、おそらく」
笑いが起きた。
浩二が笑うと、空気が少し軽くなる。
それはいつも変わらない、と洋平は思った。
「先週、孫が幼稚園の友達を家に連れてきたんだよ」と浩二は言った。
教室が静かになった。
笑いが途切れたのではなく、話を聞く空気に変わった。
「その子に、トラックを見せたんだよ。空き缶で作ったやつを。そしたら友達が『かっこいい!』って言って。孫が得意顔になってな」
「いい光景だな」とさくらが言った。
「そこまでならいい光景なんだけど」と浩二は続けた。
少し間を置いた。
「孫が友達に向かって、こう言ったんだよ」
「なんて?」
「『じいじが作ったの、世界で一個しかないんだよ』って」
教室が静かになった。
今度は、笑いにならなかった。
「・・世界で一個しかない、か」と徹が言った。
「世界で一個しかない」と浩二は繰り返した。
「その言葉がな、なんか、変なところに刺さって」
「変なところ?」
「胸の、変なところ」と浩二は言った。
「幼稚園の子が言う言葉だから、深い意味はないんだよ。じいじが作ったから世界で一個しかない、それだけの意味で言ったんだろうけど」
「でも刺さった」
「刺さった。なんか、ぐっと来た。おかしいだろ、幼稚園の子の言葉でぐっと来るなんて」
「おかしくないよ」とさくらが言った。
浩二は封筒を見た。
「世界一の発明家になります。以上。」と書いた十二歳が、今、ビルのワックスがけをしながら廃材でおもちゃを作っている。
特許は一つもない。
工場は倒産した。
世界一の発明家にはなれなかった。
でも、孫に言わせれば、世界で一個しかないものを作っている。
「夢って、こういう形で叶うこともあるのかな」と洋平は言った。
浩二はしばらく黙っていた。
「わからん」と言った。
「叶ってるとは言いにくいな、さすがに。でも、まあ。そういう言葉をもらえる人間に、なれてるのかもしれない」
それだけ言って、浩二は缶を見た。
錆びた、四十二年前の缶。
「ま、いっか」と言った。
「以上」
帰り際、校門の前で浩二が立ち止まった。
「ここ、廃校利用の話が進んでるって聞いたか」
「地域の施設として使う話があるらしい」と洋平は言った。
「体育館を改修して、子育て支援の拠点にするとか」
「そうか」と浩二は言った。
「できあがったら、孫連れてきたいな。じいじの通った小学校だぞ、ってやつ」
「いいな」
「ただ、ここでじいじが世界一の発明家になろうとしてたって話はしないようにしよう。孫に夢を持ってほしいから」
「なんで逆効果になると思うんだ」
「なるよ、絶対」と浩二は笑った。
「あのじいじみたいになったらダメだ、って学習されるだろうが」
「逆にいい反面教師になるんじゃないか」
「やめてくれ」
二人で笑った。
浩二は手を上げた。
「また来週」と言って歩き出した。
背中が少し丸かった。
でも足取りは軽かった。
赤いポストの前を通って、角を曲がって、見えなくなった。
洋平は少しの間、そこに立っていた。
世界一の発明家になれなかった男が、世界で一個しかないものを作っている。
それは、十二歳の浩二が思い描いた未来ではないかもしれない。
でも、孫が「世界で一個しかないんだよ」と言う声は本物だった。
本物の声が、一つある。
それで十分かどうかは、浩二自身が決めることだ。
でも今日の浩二の背中は、少なくとも、十分に見えた。
洋平は缶を紙袋に入れながら、浩二が帰った方向を見た。
倒産、という言葉を、洋平は心の中で繰り返した。
自分はそれを経験していない。
公務員として三十年、波もなく勤めてきた。
それが正しかったのかどうかは今でもわからないが、少なくとも、一年間何もすることがなくなる、という経験はしていない。
浩二がどれほど辛かったかは、洋平には本当には想像できない。
でも今日、浩二が一番明るい声で「よ!」と言ったのを、洋平は覚えている。
廃材でエレベーターが動く駅ビルを作る男が、「世界で一個しかない」という孫の言葉で胸の変なところを突かれている。
その浩二が、一番明るい声で来て、一番笑わせて帰っていった。
そういう人間が、どの場にもいる。
そういう人間がいることで、この場が続いていく。
洋平は紙袋を持って、廊下を歩いた。
階段を下りると、窓から校庭が見えた。
午後の光が、葉桜の葉を透かしている。
緑が、明るかった。




