第11話 宇宙飛行士になります
次の日曜日。
翔太の番だった。
来る前日、明日香さんから洋平に短いメッセージが届いていた。
「エレベーターと屋上の扉、先週確認しました。大丈夫そうでした」とだけ書いてあった。
洋平は少し驚いた。
先週確認した、ということは、翔太はそのつもりで来ていた。
今日に備えて、前の週から動いていた。
翔太は当日を待たずに、自分で先を確認していた。
そういう人間なのだ、と洋平は思った。
できることを、できるうちに、先にしておく。
自分の望むことに対して、準備をする。
当たり前のことに聞こえるが、それを黙ってやっていることが、翔太という人間の形だと洋平には思えた。
全員が揃った。
缶が机の上に出た。
「缶、開けるぞ」と翔太が言った。
自分から言った。
明日香さんがそっと缶から封筒を取り出して、翔太の手に渡した。
翔太は封筒を手の中で少し傾けて、表を見た。「石川翔太」という字。
子どもの頃の、少し丸くて、少し前のめりな字だった。
「読む?」と明日香さんが小さく言った。
「読む」と翔太は言った。
封を切った。
便箋が二枚出てきた。
「宇宙飛行士になります」と翔太は読み始めた。
声は少し低かった。
でも、はっきりとしていた。
「ぼくは三十年後、宇宙飛行士になっています。NASAかJAXAに入っていると思います。宇宙船に乗って、地球を見下ろすのが夢です。宇宙から見た地球は青くて丸いと聞いています。大陸が見えます。海が見えます。雲の流れが見えます。ぼくはまだ行ったことがありませんが、写真で見た宇宙からの地球がずっと頭から離れません。あの青い星を、自分の目で見たいと思っています。
ぼくは星が好きです。夜に双眼鏡で星を見るのが好きです。ベテルギウスはオリオン座の左肩にある赤い星です。シリウスは冬の空で一番明るい星です。アルタイルとデネブとベガは夏の大三角形を作ります。去年の夏、流れ星を見ました。お父さんと一緒に縁側に出て、見つけたときには終わっていましたが、光の痕が空に残っていました。その一秒が、今でも好きです。
先生が宇宙の話をしてくれたとき、宇宙は人間が一生かかっても行き着けない場所があると言っていました。それでも星の光はここまで届く、と言っていました。遠くにあるものが、届いてくることがある。それが、宇宙だと思っています。
三十年後のぼくへ。宇宙に行けましたか。石川翔太より」
読み終えた。
しばらく、教室が静かだった。
「最後、自分の名前が書いてあった」と翔太は言った。
「美穂さんとは違って」
笑いが起きた。
先週の浩二の終わり方を踏まえた台詞だとすぐにわかって、また笑いが少し続いた。
翔太が笑っていた。
声に出して、笑っていた。
その笑顔を見るのが、洋平には何か嬉しかった。
翔太がこれほど声を出して笑うのを、久しぶりに見た気がした。
「宇宙、好きだったんだな」と徹が言った。
「好きだった」と翔太は言った。
「今も好きだ」
「今も?」
「今も。変わらない」
「宇宙飛行士には、なれなかった」と翔太は言った。
少し間を置いてから、自分から言った。
「なれなかったか」と洋平は繰り返した。
「身体が変わったから」と翔太は言った。
それだけだった。
説明でも謝罪でも悲嘆でもなく、事実として言った。
「大学の頃から少し変だと思っていたが、三十五のときに診断が出た」
「そうか」
「ALSです」と翔太は言った。
誰かが知らない可能性があるから言う、というような、普通の声で言った。
「筋萎縮性側索硬化症。進行性の神経疾患で、筋肉が少しずつ動かなくなっていく。今は脚が動かない。腕も、少し」
「話せてる」と誠が壁際から言った。
「今は話せる」と翔太は言った。
「これも、いずれ変わるかもしれない」
誰も何も言わなかった。
「でも今、話せる」と翔太は続けた。
「だから、今日ここで読んだ」
その言い方が、洋平には残った。
今話せるから話した。
今ここにいるから来た。
今できることを、今する。
それが翔太という人間の形だった。
できないことを嘆くのではなく、できることをする。
静かだが、強い形だった。
「宇宙飛行士になれなかったことは、悔しい?」とさくらが聞いた。
翔太は少し考えた。
「なれなかったこと、というよりも」と言い始めた。
「宇宙を自分の目で見るという経験は、できないかもしれない、という方が・・」と言い、止まった。
「でも、空は見られる。今でも見られる」
「見てるの?、今も」と徹が聞いた。
「見てる。晴れた夜は明日香と外に出て、しばらく上を向いてる」
「双眼鏡は?」と浩二が聞いた。
「今も持ってる。ベテルギウスも、シリウスも、まだ見える」
浩二が「よかった」と言った。
浩二らしくない言い方だったが、それでよかった。
その一言が、何より正確だった。
「一つ、お願いがある」と翔太が言った。
全員が翔太を見た。
「屋上に連れていってほしい。今夜、晴れているうちに」
それは問いかけではなかった。
翔太の口調は穏やかだったが、明確だった。
迷っている感じも、遠慮している感じも、なかった。
自分が何を望んでいるかを知っていて、その望みをここで言った。
それだけのことだった。
「行こう」と洋平は言った。
「エレベーターは確認した」と翔太が言った。
「三階から屋上への扉を、開けられるか確認してほしい」
「確認してくる」と徹がすぐに立ち上がった。
達也と誠が屋上への扉を確認しに行き、さくらと由美がエレベーターの場所を確認した。
五分もしないうちに「行けます」という報告が戻ってきた。
「じゃあ、行く」と翔太は言った。
屋上への扉を開けると、風が来た。
夜の風だった。
四月の終わり、空気がまだ少し冷たかった。
でも澄んでいた。
翔太が扉の外に出た。
明日香さんがゆっくりと車椅子を動かした。
「ああ」と翔太が言った。
声ではなく、息の音だった。
空に、星があった。
都市の光がある場所だから全部の星は見えない。
でも、見えた。
明るい星が、いくつも。
南の空に低い星が一つ。
東の空に、また一つ。
「あれが、アルクトゥルス」と翔太は言った。
「春の星。オレンジがかってる」
「どこだ」と徹が言った。
翔太が「あっちの方向、低い位置」と言い、徹が「あー」と言った。
「あれが、スピカ。白っぽい」
「見える見える」と由美が言った。
「東の方に、もう少し待てば夏の星が出てくる。今の時期はまだ早いけど」
誰も何も言わなかった。
全員が上を向いていた。
十一人が、夜の屋上で同じ方向を見ていた。
洋平は、ただ空を見上げていた。
星の名前は覚えられない。
でも、見ていると何かが落ち着いた。
あの光が、何千光年も離れた場所から届いている。
光が届くまでに何千年もかかる、ということは、今見ているものが何千年も前に出発した光だということだ。
今見ているものが、過去のものだ。
遠くにあるものが、時間をかけて、届く。
翔太の手紙にあった言葉が、洋平の頭の中に戻ってきた。
「遠くにあるものが、届いてくることがある。それが、宇宙だと思っています。」
十二歳の翔太が、書いた言葉だった。
風が吹いて、さくらが少し震えた。
浩二が「寒いか?」と聞き、さくらが「少し」と答えた。
でも誰も動かなかった。
「もしかしたら」と翔太が言った。
静かな声だった。
誰かに向かって言うのではなく、空に向かって言うような声だった。
「ずっと宇宙の近くにいたのかもしれない」
誰も何も言わなかった。
「この四十二年間、地球から出たことはない。宇宙船には乗れなかった。でも、毎晩空を見てた。星の名前を覚えて、双眼鏡で追いかけて、明日香と一緒に外に出て、上を向いてた」
「うん」と誰かが言った。
「それが、宇宙の近くにいることなのかもしれないと、今日思った。ここに来て、思った」
洋平は翔太の顔を見た。
翔太は上を向いていた。
車椅子の上で、頭を後ろに傾けて、空を見ていた。
その顔に、悲しみがなかった。
かわいそうな感じも、諦めの感じも、なかった。
ただ、見ていた。
自分が好きなものを見ている人間の顔で、空を見ていた。
その顔が、洋平には美しいと思えた。
美しい、という言葉を使うことに少し躊躇したが、他に適切な言葉がなかった。
四十二歳の男が、夜の小学校の屋上で空を見上げている顔が、洋平には美しかった。
明日香さんがそっと翔太のコートの襟を直した。
翔太は気づいていたが、顔を動かさなかった。
二人の間にある時間が、静かにそこにあった。
しばらくして、屋上を降りた。
エレベーターに乗って、廊下を歩いた。
翔太がふと、「主治医の話を一つしていいか」と言った。
「どうした」
「いい先生で。三十代くらいの若い人なんだが、話を最後まで聞く人間で。患者の話の途中で口を挟まない」
「そうか」
「初めて会ったとき、どこかで会ったような気がした。思い出せないんだが」
「誰かに似てたのか」
「似てる、というより、会ったことがある気がする。でも思い出せない」
翔太は、それだけ言った。
洋平はそれ以上は聞かなかった。
でも頭の中に、先生の名前を聞いてみよう、という気持ちが残った。
「また来週」と翔太が言った。
「また来週」と洋平が言った。
明日香さんが車椅子を動かし、エレベーターの扉が閉まった。
廊下に、洋平だけが残った。
校舎の窓から、空が見えた。
屋上から見た星が、まだ洋平の目の中にあった。
あの光は、何千年もかけてここに届いた。
翔太はずっと、その光を追いかけていた。
地球の上で、空を見上げながら。
それが、宇宙の近くにいることだとすれば、翔太はずっと、宇宙の近くにいたことになる。
そう思ったら、洋平は少し、楽になった気がした。
翔太のために楽になったのか、自分のために楽になったのかは、よくわからなかった。
廊下を歩いた。
階段を下りると、赤いポストが見えた。
校門の前に、いつもと同じ場所に立っている。
今夜も、ここから手紙が届く場所がある。
三十年後にも、届く場所がある。




