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番外編 星を見た夜のこと

 翌週の集まりは、いつもより静かだった。

 雨のせいかもしれない。

 あるいは翔太のことを、みんながまだ抱えていたせいかもしれない。

 どちらでもあったし、どちらでもなかったかもしれない。

 ただ、誰かが缶コーヒーを配り終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。

 雨が窓ガラスを叩く音だけが、旧教室の中にあった。


 徹が先に言った。

「先週のこと、俺、帰ってからもぜんぜん眠れなかったよ」

 誰も笑わなかった。

 同意するように、浩二が缶コーヒーを両手で包んだ。

「俺も。なんか、あの星がずっと頭に残っててさ」

 屋上で見た星のことを、それぞれが心の中に持ったまま一週間を過ごしていた。

 それはわかっていた。

 ただ、言い出せなかっただけだ。


 あの夜のことを、由美はこう覚えている。

 翔太が屋上のドアを開けた瞬間、風が吹いた。

 秋口の夜風で、思ったより冷たかった。

 翔太の車椅子を徹と浩二で押しながら、ドアの段差を越えたとき、翔太が「あ」と言った。

 声は小さかったけれど、屋上全体に広がるような「あ」だった。

 由美は急いで空を見上げた。

 でも、最初に目に入ったのは空じゃなくて、翔太の横顔だった。

 月明かりに照らされた頬が、静かに緩んでいた。

 その表情を見て、由美は何かを言おうとして、やめた。

 言葉にしたら壊れてしまう気がした。

 だから黙ったまま、星を見た。


 さくらは、帰り道のことを思い出す。

 駐輪場で自転車の鍵を探していたら、翔太の声が聞こえた。

「さくら先生」

 振り返ると、介護タクシーを待ちながら、翔太がこちらを見ていた。

「先生、今日、来てくれてよかった」

 さくらはなんと言えばいいかわからなかった。

 教師を二十年以上やっていても、その一言には返せなかった。

「翔太こそ、声をかけてくれてよかった」

 そう言うのが精いっぱいだった。

 翔太は笑った。

 あの笑顔は、十二歳のときのまま何も変わっていなかった。

 子どもたちの顔を思い出すとき、さくらはよく翔太の笑顔を思い出すようになった。

「変わらない」というのは、弱さじゃないと、ようやくわかった気がした。


 誠は、別のことを覚えている。

 翔太の車椅子を押す役を申し出たとき、浩二にさっと先を越された。

 悔しかった。

 刑事なんだから体力ならあると思ったのに、と心の中で言い訳しながら、階段の手すりをつかんで後ろについていった。

 屋上で、翔太が「ありがとう」と言った。

 浩二に言ったのか、その場の全員に言ったのかわからなかった。

 でも誠は、自分に言われたような気がした。

 根拠はない。

 ただそう感じた。

 翌朝、誠はまだ眠っている息子の部屋をのぞいた。

 何年ぶりかわからなかった。

 ドアをそっと閉めながら、廊下に立ったまましばらく動けなかった。


 その夜のことを、洋平は帰りの車の中で何度も反芻した。

 翔太から言われた言葉があった。

 帰り際、みんなが散り始めた廊下で、洋平が翔太の横に立ったとき、翔太がぽつりと言った。

「お前だけは、ずっと変わらないな」

 洋平は笑って「そうかな」と言った。

 翔太も笑った。

 それだけの会話だった。

 でも帰りの車に乗り込んでドアを閉めた瞬間、笑えなくなった。

 変わらない。

 その言葉が、胸の奥で反響し続けた。

 変わらないんじゃない、と洋平は思った。

 言えないままでいるだけだ。


 洋平が市役所の職員になったのは、地元に残りたかったからだ。

 両親のこともあったし、この町が好きだったのも本当だ。

 でもそれだけじゃなかった。

 もう一つ理由があった。

 その理由を、三十年間、誰にも言ったことがなかった。

 佐々木先生のこと。

 先生が亡くなったと聞いたとき・・同窓会の話が出て、洋平が調べてはじめてわかったのだが・・最初に頭に浮かんだのは悲しみじゃなかった。

 もう言えない、という静かなパニックだった。


 十二歳のころ、洋平には言えなかったことがあった。

 タイムカプセルを埋める前の日、先生に話しかけようとして、できなかった。

 職員室の前まで行った。

 ガラス越しに先生の後ろ姿を見て、引き返した。

 そのことを、誰にも言わなかった。

 言えなかったというより、言い方を知らなかった。

 言葉にしたら、軽くなってしまう気がした。

 三十年が経っても、その重さはなくなっていなかった。

 ただそこにあり続けている。


 翔太が星を見上げたとき、洋平も空を見た。

 宇宙飛行士になりたかった十二歳の翔太が、あの夜、一番宇宙の近くにいた。

 そう思った。

 夢というのは、叶う形だけが正解じゃないのかもしれない。

 じゃあ、自分はどうだろう。

 先生に言えなかったことは、どこへ行ったのだろう・・。


 集まりの帰り道、洋平は傘を差したまま少し遠回りをした。

 旧校舎の横を通り過ぎるとき、足が自然と止まった。

 雨に濡れた校庭は、暗くて、思ったより広かった。

 夜は見慣れた場所を知らない場所に変えてしまう。


 桜の木が、雨の中で揺れていた。

 三十年前も、こうして揺れていたのだろうか。

 あの日、タイムカプセルを埋めたとき、先生はどんな顔で空を見上げていたのだろう。

 洋平は覚えていなかった。

 なぜ覚えていないのか、今となってはわからない。


 傘の端から雨粒が落ちた。

 洋平は少しだけ空を見上げた。

 雲が厚くて、星は見えなかった。

 先週の夜、翔太と一緒に見た星は、今夜はどこにあるのだろう。

 消えたわけじゃない、と思った。

 雲の向こうにある。見えないだけで、ちゃんとそこにある。


 言えなかった言葉も、きっとそういうものだ。

 消えたわけじゃない。

 洋平はそう思いながら、傘を少し傾けて、歩き出した。

 雨の音が、足音に混じっていた。

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