第12話 きれいなお嫁さんになります
由美は笑うのが得意だ。
正確に言えば、笑わせるのが得意だ。
コンビニのレジでも、病院の待合室でも、なぜかそこにいる人と話し込んでしまう。
知らないおばあさんに「あなた、いい顔してるわね」と言われることが年に三回はある。
クリーニング屋のおじさんには「うちの息子と結婚してくれ」と言われつづけて七年になる。
笑い話にすれば、だいたい何でも笑い話になる。
それが、由美の生き方だった。
だから由美のまわりにはいつも人がいた。
一人で静かにいることが、由美には苦手だった・・と言えば、半分本当で、半分は嘘だ。
本当のことを言えば、一人の時間も嫌いじゃなかった。
でも、一人でいるときの由美の顔を、由美自身は知らなかった。
鏡を見ないかぎり、人は自分の顔を見ることができない。
あの日、手紙を持ってきた由美は、珍しく黙っていた。
みんなの前で封筒を手にしたとき、由美は少し笑って、「あー、読みたくないな」と言った。
笑い飛ばすための前置きのはずだったが、声が少しだけ低かった。
洋平が「無理して読まなくてもいい」と言おうとしたが、由美はすでに封を切っていた。
手紙は短かった。
三十年後のわたしへ。
きれいなお嫁さんになってますか?大好きな人といっしょにいますか?
わたしは毎日わらっていたいです。それだけが、いちばん大じなことだとおもいます。
読み終えると、教室がしんとした。
直後に、徹がぼそっと言った。
「由美、文章が子どもすぎて聞くのがつらい」
全員が噴き出した。
由美も笑った。
今度は声の高さが戻っていた。
四十二歳の由美は、独身だ。
結婚できなかった、というより、しなかった、というより・・正直に言えば、その両方。
どちらかに決めれば楽なのに、どちらにも決められない。
それが由美という人間の核心にあるような気が、ここ数年でようやくしてきた。
二十代のころは漠然と「いつかするもの」だと思っていた。
焦りよりも余裕のほうが大きかった。
三十歳になったとき、周囲は急に「そろそろ」と言い始めたが、由美にはまだその「そろそろ」が自分ごとに聞こえなかった。
焦っていない自分を、少しだけ誇らしく思っていた節さえある。
今思えば、それは焦りを笑いに変換していただけだったかもしれない。
三十五歳のとき、付き合って三年になる人がいた。
悪い人ではなかった。
むしろ、とても誠実だった。
プロポーズもされた。
指輪も見せてもらった。
シンプルで品のいい指輪だった。
由美の好みをちゃんと考えてくれた、ということが、プロポーズより先にわかった。
でも、由美は「もう少し待って」と言った。
半年待ってもらった。
もう少し待って、ともう一度言った。
彼は静かに言った。「由美さんが踏み出せないなら、ぼくが待ちつづけるのは違うと思う」。
その言葉には怒りがなかった。
怒鳴られたほうが、むしろよかった。
怒りのない言葉は、やわらかいぶん、深くまで刺さった。
別れた夜、由美は友人に電話して「振られた」と言って泣いた。
笑いながら泣いた。
「振られた、って言ったほうが傷が深そうじゃない?」と友人が言ったので、また笑った。
そうやって笑ってやり過ごした。
でも、やり過ごした、ということに、自分でも気づいていた。
踏み出せなかったのは、なぜだろう。
結婚しなかった理由を、由美はうまく説明できない。
嫌いな人と結婚したくなかっただけだ、と言えば、それは本当だ。
でも、じゃあ好きな人がいなかったのか、と言えば、それも違う。
好きな人はいた。
でも「この人と結婚する」という確信が持てなかった。
その確信が、どこかから来るものなのか、自分でつくるものなのか、四十二歳になった今もわからない。
わからないまま、ここまで来てしまった。
本当のことを言えば、由美は怖かったのだと思う。
笑えなくなることが、怖かった。
誰かと暮らすということは、笑えない自分を見せることだ。
疲れて帰ってきた夜に、何も面白くない顔で食卓に座ることだ。
つまらない喧嘩をして、謝る言葉が出てこないまま布団に入ることだ。
由美はそういう夜を想像するたびに、なんとなく息が浅くなった。
笑いは得意だ。
でも、笑えない夜を誰かと共有することが、由美には怖かった。
その怖さを、誰にも言ったことがない。
笑い話にできなかったから。
「失敗だったのかな」と思ったことは、正直、何度もある。
同世代の友人たちが子どもの入学式の写真をSNSにあげるたびに、少しだけ胸のあたりがざわついた。
ざわついたことに気づかないふりをして、「おめでとう!」とコメントして、スマホを置いた。
その「おめでとう」は本物だったけれど、ざわつきも本物だった。
正月に実家に帰るたびに、母が「いいひとはいないの?」と聞いた。
由美は毎年、「いないよ、お母さんこそどうなの」と言って笑いに変えた。
母も笑った。
でも笑い終わったあとに、少しだけ気まずい空白があった。
その空白の重さは、年々少しずつ増えていった。
去年の正月は、母が聞かなかった。
母が聞かなくなったことに、由美は初めて気づいた。
聞かれなくて楽になった、という気持ちと、もう聞かれないのか、という気持ちが、同時にあった。
どちらのほうが大きかったのか、由美は今でも答えを出せていない。
夜、一人でいるとき、由美は笑わない。
それは当たり前のことだ。
由美は割と最近まで、そのことを意識していなかった。
一人でいる自分の時間を、あまりじっくり見たことがなかった。
三十六歳の冬のある夜、由美はいつもより早く帰って、コートを脱がないまま、台所の椅子に座った。
特に理由はなかった。
ただ、立ったまま電気もつけずに、暗い台所に座っていた。
外から車の音が聞こえて、通り過ぎた。
また静かになった。
怖くはなかった。
かといって、落ち着いているわけでもなかった。
ただそこにいた。
笑いでも悲しみでもない、由美の知らない自分の顔が、暗がりの中にあった気がした。
それが不思議と、悪くなかった。
翌朝、由美は普段より少しだけ丁寧に顔を洗った。
なぜそうしたのかはわからなかった。
でも、なんとなく、そうした。
三十七歳のときに転職した。
それまでは営業職で、数字を追いかける仕事をしていた。
嫌いではなかったが、「好きか」と聞かれると迷った。
転職先は小さな福祉用具の会社で、お年寄りや障害のある人の家に行って、手すりや車椅子の相談に乗る仕事だった。
給料は下がった。
それでも続けたのは、最初の訪問先で出会ったおじいさんのせいだ。
八十一歳の、膝が悪いおじいさんだった。
名前は本多さんといった。
最初の訪問で、由美が廊下の手すりを測っていたら、本多さんがお茶を持ってきた。
「若いのに、こういう仕事してるんだね」と言った。
「好きなんです」と由美は言った。
自分でも驚いた。
「好きです」なんて、反射的に出てきた言葉だったが、嘘ではなかった。
本多さんはしばらく由美を見て、「そうか」と言って、また立ち去った。
その「そうか」が、由美にはとても温かく聞こえた。
それから、由美は本多さんの家に定期的に通うようになった。
手すりの調整だけではなく、ちょっとした相談を受けるようになった。
本多さんはあまり笑わない人だったが、由美が話すと、目だけが笑った。
ある日、本多さんが言った。
「あんたが来るとな、うちが明るくなる気がする。何でかわからんけど」
由美は笑って「ありがとうございます」と言った。
でも、帰りの車の中で、その言葉をまだ持っていた。
何でかわからんけど。
由美も、何でかわからなかった。
でも、確かにそこに何かがあった。
転職して後悔しなかった。
これが初めて「後悔しない選択」だったかもしれない、と思った。
もしかしたら、結婚についても・・、と考えてみた。
でも、結婚と転職は違う。
踏み出さなかった後悔は、踏み出した後悔とは種類が違う。
踏み出さなかったことへの後悔は、「あのとき踏み出していたら」という仮定の話であり続ける。
答えは永遠に出ない。
出ないまま、ここまで来た。
由美はそれを、四十二歳になってようやく、「そういうものか」と思い始めている。
教室で手紙を読み終えたあと、しばらく笑いが続いた。
さくらが「由美ちゃんの手紙、笑っていたいって書いてあるね。今も笑ってるじゃない」と言った。
由美は「まあね」と言って、笑った。
でも、その笑いが終わりかけたとき、ふと止まった。
今も、笑ってるじゃない。
さくらの言葉が、頭の中で少しだけ遅れて響いた。
由美は手紙を見た。
「わたしは毎日わらっていたいです」という、十二歳の自分の文字。
ひらがなが多くて、字が丸かった。
今の由美が書いたら、もう少し引き締まった字になるだろう。
でも、内容は変わっていないかもしれない。
きれいなお嫁さんになったか。
なっていない。
大好きな人といっしょにいるか。
・・今日ここにいる全員が「大好きな人」ではある気がする。
違うか。
でも、まあ。
毎日笑っていたいか。
由美はもう一度、周りを見回した。
徹が浩二に何か言ってまた笑わせていた。
洋平が困ったような顔をしていた。
さくらが「もう、こら」と言いながら笑っていた。
笑ってるじゃないか、と由美は思った。
今日も笑っている。昨日も笑っていた。
明日も、たぶん笑うだろう。
仕事先の本多さんの家でも、クリーニング屋のおじさんのところでも、コンビニのレジでも・・由美は笑っている。
笑わせている。
それが気づかぬうちに、自分の毎日の形になっていた。
叶ってる、と思った。
結婚はしていない。
子どももいない。
「きれいなお嫁さん」にはなっていない。
十二歳のわたしが想像していた未来とは、全然違う。
でも、毎日笑っていたい、という一番大事なことは・・
叶ってる。
由美は手紙を折りたたんで、ゆっくり封筒に戻した。
「なんか」と、由美は言った。
全員が見た。
「叶ってたわ」
声は笑っていたが、少しだけ潤んでいた。
それに気づいた徹が「え、泣いてる?」と言った。
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「笑いすぎて目が潤んでるの。同じじゃないから」
「いや同じじゃないけど」
また笑った。
由美も笑った。
今度は目元をごまかしながら、ちゃんと笑った。
後悔がないわけじゃない。
でも、今日笑えているなら、とりあえずそれでいい。
そう思えた日を、由美はうまく言葉にできないけれど・・この日のことは、ずっと忘れないだろうと思った。
帰り道、由美は一人でバスに乗った。
窓の外を流れる景色を見ながら、ぼんやりと十二歳のころを思い出した。
あのころ「きれいなお嫁さん」という夢を書いたのは、本当に心からそうなりたかったからだ。
嘘じゃなかった。
お嫁さんになりたかった。
ウェディングドレスを着て、好きな人の隣に立ちたかった。
それは確かな気持ちだった。
でも今の由美には、あのころとは別の何かがある。
うまく名前をつけられないけれど、確かにある。
本多さんが「何でかわからんけど」と言ったときの、あの感覚に近いかもしれない。
説明できないけれど、確かにそこにある何か。
バスが揺れた。
窓に映った自分の顔を、由美は見た。
少しだけ、笑っていた。
意識していないのに笑っていた。
こんな顔、自分ではわからなかった。
日中、誰かを笑わせているときの顔じゃない。
一人でバスに揺られながら、窓の外の夕暮れを見ているときの顔だ。
これが、自分の顔なんだ、と思った。
誰かを笑わせていないときでも、由美は少し笑っていた。
笑うことが、防御じゃなくて、ただの自分の形になっていた。
いつからそうなったのかはわからない。
でも、今がそうなら、それでいい。
まあ、いいか。
由美はイヤホンをつけて、好きな曲をかけた。
古い曲だった。
中学のころよく聴いた曲で、今でもたまに聴きたくなる。
サビになると、なんとなく口角が上がる。
なぜそうなるのかは、わからない。
でも、そういうものだ。
窓の外は、夕暮れだった。




