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第13話 警察官になります

 誠は、迷わない人間だ。

 少なくとも、ずっとそう思って生きてきた。


 事件が起きれば現場へ向かう。

 証拠があれば追う。

 疑う余地のない悪があれば、法の名のもとに動く。

 その繰り返しが三十年だった。

 刑事として捜査一課に籍を置き、解決した事件は数えきれない。

 表彰状も何枚かある。

 引き出しの奥にしまってあるが、見返したことは一度もない。

 刑事とは、そういう仕事だと思っていた。

 感情で動くと判断が鈍る。

 鈍ると見えるべきものが見えなくなる。

 だから誠は、感情を後ろに置いて前を歩いてきた。

 それが正しいやり方だと、本気で信じていた。

 四十二歳の秋になって、誠はようやく気づいた。

 後ろに置いてきたのは感情だけじゃなかった。


 教室に来た誠は、最初の回から少しだけ浮いていた。

 洋平に連絡をもらったとき、正直、断ろうと思った。

 タイムカプセルだの同窓会だのに、自分が出るべき理由がわからなかった。

 それ以上に、自分の「夢の手紙」と向き合うことへの抵抗が、言葉にできないほど胸の奥にあった。

 なぜかはわかっていた。

「警察官になります」と書いた。

 なった。

 だから叶ったことになる。

 でも誠は、それを素直に「叶った」とは言えないことを、ずっと知っていた。

 洋平に「来てほしい」と言われたとき、断る言葉を探しながら、気づいたら「行く」と言っていた。

 なぜそうしたのか、今でもうまく説明できない。


 封筒を手にしたのは、木曜日の夜だった。

 その日は朝から強行犯の取り調べがあり、昼に捜査会議があり、夕方に被害者家族への聴き取りがあった。

 帰宅したのは夜の十時を過ぎていた。

 玄関に鍵を刺したとき、廊下に明かりがついていないことに気づいた。

 妻の靴がなかった。

 リビングに入ると、テーブルの上に夕食が置いてあった。

 ラップがかかっていた。

 メモは添えていない。

 何年も前からそうだ。


 誠はコートを脱いで、椅子に座った。

 封筒は、ジャケットの内ポケットにある。ずっとそこにあった。

 集まりでは最後まで開けなかった。

「持ち帰って読む」と言って誰も止めなかった。

 ラップをはがす。

 冷めたままでいい。

 誠はそれほど、食事にこだわりがない。


 食べながら、封筒をテーブルの端に置いた。

 しばらく見ていた。

 十二歳のぼくが書いた字が、クリーム色になった封筒の表に見えた。

「三十年後のぼくへ」。

 筆圧が強くて、角張った字だった。

 あのころから誠は、丸い字が書けない子どもだった。

 食べ終わって、封を切った。


 三十年後のぼくへ。

 ぼくは警察官になります。

 わるいやつをたいほして、よい世界をつくります。

 法りつはぜったいだとおもいます。

 ただしいことをすれば、ただしいけっかがついてくると思います。

 ぼくはぜったい、悪いことはしません。

 家族も、ぜったいまもります。


 誠は二回読んだ。

 二回目を読んだとき、最後の一文だけを、もう一度だけ読んだ。

「家族も、ぜったいまもります。」

 誠は手紙をテーブルに置いた。

 ゆっくり立ち上がって、台所に行った。

 水を飲んだ。

 冷たかった。

 コップを流しに置いて、窓の外を見た。

 深夜の住宅街は静かで、街灯が一本だけ、向かいのアスファルトを照らしていた。

「家族も、ぜったいまもります。」

 誠の息子の名は、翔一郎という。

 二十歳だ。

 二年前、窃盗で補導された。


 翔一郎が小学校に上がったころ、誠はすでに捜査一課にいた。

 帰りが遅い日は、週に四日か五日あった。

 休日出勤もよくあった。

 電話で「パパ今日帰れる?」と聞かれるたびに、「なるべく早く帰る」と答えた。

 なるべく、という言葉を使うようになったのは、その言葉だと嘘にならないからだ。

「帰る」と言って帰れない夜が続くと、子どもは信じなくなる。

 なるべく、と言えば、帰れなくても嘘にならない。

 当時の誠は、それを「誠実な言い方」だと思っていた。


 翔一郎が中学に入ったころ、学校から電話が来るようになった。

 最初は授業中に抜け出した、次は喧嘩をした、その次は夜に無断外泊をした。

 そのたびに誠は学校へ行き、先生と話し、翔一郎に「なぜそういうことをするのか」と問い正した。

 翔一郎はいつも黙っていた。

 誠は正しいことを言っていた。

 法に触れることはするな。

 他人に迷惑をかけるな。

 けじめをつけろ。

 それはすべて正しかった。

 間違ったことを言ったつもりはない。

 だが翔一郎は、やがて言葉を返すことさえしなくなった。

 問い正すと目を逸らした。

 黙ったまま頷くか、黙ったまま立ち去るか、そのどちらかになった。

 誠には、それが「反抗」に見えた。

 今になって思う。

 あれは反抗じゃなかった。

 あれは、言っても届かないことをわかっていた、ということだ。


 翔一郎が補導されたのは、大学に入った年の春だった。

 コンビニで財布を盗んだ。

 被害額は六千円だった。

 六千円。

 誠は報告を受けたとき、一瞬、何かの間違いだと思った。

 次の瞬間、顔が熱くなった。

 それが恥だったのか、怒りだったのか、今でもわからない。

 翌日、翔一郎と向き合った。

「なぜそんなことをした」と聞いた。

 翔一郎は答えなかった。

「何が足りなかった。金が必要なら言えばよかった」と言った。

 翔一郎は少しだけ笑った。

 笑い方が、苦しそうだった。

「金が欲しかったわけじゃない」と翔一郎は言った。

「じゃあなぜだ」

 翔一郎は口を閉じた。

 また黙った。

 誠は待った。

 待ちきれなくなって、また言葉を続けた。

 それがいけなかった、と後から気づいた。

 あのとき誠がもう少しだけ黙っていれば、翔一郎は何かを言ったかもしれない。

 でも誠には、黙って待つということが、どうにもできなかった。

 取り調べの習慣が染みついていた。

 空白を埋めようとする癖が、親子の間にも出た。

 その夜、翔一郎は部屋から出てこなかった。

 誠は一人でリビングに座って、テレビも消えたまま、夜が明けるまでそこにいた。


 補導から一年が経った。

 翔一郎は大学を休学した。

 理由は聞かなかった。

 聞けなかった。

 誠が何かを言うと翔一郎が心を閉じてしまうことが、この一年でわかっていた。

 妻は誠に言った。

「翔一郎と、ちゃんと話してあげてほしい」と。

 ちゃんと、という言葉に、誠は少しだけ傷ついた。

 これまでちゃんと話してこなかった、ということが、その言葉には含まれていた。

 含まれていると感じてしまう自分がいた。

「ちゃんとしてきたつもりだ」と誠は言った。

 妻は「つもりじゃ届かない」と言った。

 それだけで、会話は終わった。

 二人でそれ以上続けることができなかった。

 続けようとしても、言葉が出てこなかった。

 誠は喧嘩が苦手だ。

 正しいことを言えばいいのに、身近な人間に対してだけ、どういうわけか言葉がうまく出てこない。

 被疑者に対しては何時間でも話せる。

 妻や息子に対しては、五分も続かない。

 それが誠にとって、三十年かけてわかった、自分の欠陥だった。


 タイムカプセルの集まりに来るようになって三ヶ月が経ったころ、誠は帰宅したリビングで翔一郎と鉢合わせた。

 翔一郎がリビングにいること自体、珍しかった。

 いつも部屋にこもっているか、誠が帰る前に出ていくかのどちらかだった。

 それが、その日は夕食の支度をしていた。

 冷蔵庫を開けて、何かを探しているところだった。

 誠が「おう」と言うと、翔一郎が「あ」と言った。

 それだけだった。

 二人とも次の言葉が出てこなかった。

 翔一郎は冷蔵庫を閉めて、台所に戻った。

 誠は鍵をフックにかけて、コートを脱いだ。


 二人でリビングにいることへの、どうにも言いようのない気まずさが、部屋の中に漂った。

 翔一郎が先に言った。

「メシ、どうする」

 誠は一瞬止まった。

「・・食べる」

 翔一郎は頷いて、冷蔵庫をまた開けた。

 それが、この一年で初めて交わした、仕事とも怒りとも無関係な言葉だった。


 夕飯は、卵かけご飯と、昨日の残りの味噌汁だった。

 たいして美味くもないが、不味くもなかった。

 二人でテーブルを挟んで、黙って食べた。

 翔一郎は茶碗を持つ手つきが昔からぎこちない。

 誠がちゃんと教えなかったせいだと、母親から言われたことがある。

 食べ終わったあとも、二人でテーブルについたままだった。

 立ち上がるタイミングを、どちらも計れずにいた。

 誠が先に言った。

「同窓会みたいなのに、行ってる」

 翔一郎が少し顔を上げた。

「小学校の。廃校になるから、タイムカプセルを開けた」

「・・そうなんだ」

「昔書いた手紙が入ってた。三十年後のぼくへ、っていう」

 翔一郎はしばらく黙っていた。


「何て書いてあった?」

 誠は少しだけ迷って、言った。

「警察官になります、と。家族もぜったいまもります、と」

 翔一郎は何も言わなかった。

 誠は続けた。

「警察官にはなった」

 翔一郎が静かに頷いた。

「家族は」と、誠は言った。

 それだけ言って、続きが出てこなかった。

 翔一郎は茶碗を両手で持ったまま、目を伏せた。

 部屋が静かだった。

 誠はそのとき初めて、黙って待つことができた。


 翔一郎が口を開いたのは、それから一分以上経ってからだった。

「おれ、ずっと思ってた」

 誠は動かなかった。

「親父が仕事から帰ってくる時間、ちゃんと覚えてる。遅かったり早かったり、バラバラだったけど、玄関の鍵の音で毎回気づいてた」

 誠は息を止めた。

「部屋から出ていかなかったのは・・怖かったからじゃなくて、出ていくタイミングがわからなかった。何て言えばいいかわからなかった。話しかけようとすると、決まって説教が始まるから」

 翔一郎は声を荒げていなかった。

 静かに、ただ話していた。


「説教が嫌だったわけじゃない。正しいこと言ってるって、わかってた。でも、正しい言葉って、なんか」

 翔一郎は少し考えてから言った。

「冷たいんだよ。正しいから、隙間がない。隙間がないから、入れない」

 誠は何も言えなかった。

 翔一郎は下を向いて続けた。

「財布盗ったのも、理由が欲しかったのかもしれない。捕まって、誰かがちゃんと怒ってくれれば・・、なんか、繋がる気がして。馬鹿みたいだけど」

 馬鹿みたい、という言葉を、翔一郎は自嘲するように言ったが、誠にはその言葉が刃のように刺さった。

 馬鹿みたいじゃなかった。


 誠には、わかった。

 捕まれば、怒られる。

 怒られれば、向き合ってもらえる。

 正論じゃなくて、怒りという感情でいい。

 感情で動いてほしかった。

 それが翔一郎の、言葉にならなかった本音だったのだと、誠はようやく理解した。

 三十年かけて刑事をやってきた男が、息子の気持ちを読み取れなかった。


「おれが」と誠は言った。

 声が少しかすれた。

「おれが、間違えた」

 翔一郎が顔を上げた。

 誠はテーブルを見ながら言った。

「正しいことばかり言っていた。間違えるな、と言った。でも、おれ自身が間違えていた。おまえのそばにいる時間が、足りなかった。言葉が、冷たかった」

 翔一郎は何も言わなかった。

「謝り方がわからない。でも・・ごめん」

 最後の言葉を言うのに、誠は時間がかかった。

 取り調べで何万言も喋ってきた男が、この言葉だけで声が詰まった。

 翔一郎は少しの間、下を向いていた。

 やがて、静かに言った。

「おれも、もっとちゃんと言えばよかった」

 それだけだった。

 それだけだったが、誠にとっては十分だった。


 二人は長い時間、同じテーブルにいた。

 途中で翔一郎がお茶を入れてきた。

 緑茶だった。

 誠の好みを知っていた。

 誠はそのことに少し驚いた。

 覚えていてくれた、ということに。

「面接を受ける」と翔一郎は言った。

「先月から就活してる」

 誠は頷いた。

「どんなところだ」

「営業の会社。知ってるとこかも。聞いたことある名前だった」

「どこだ」と誠が聞くと、翔一郎が会社名を言った。

 誠は一瞬止まった。聞いたことがある社名だった。

 同窓会の仲間の誰かが関わっていた、と聞いたような気がする。

 記憶が確かなら、あそこは・・。

「そうか」と誠は言った。

 それ以上は言わなかった。


 縁というのは、時々、こういうふうに不思議な形でつながる。

 誠はそれを信じるタイプではなかったが、このときだけは、何か見えない手が動いている気がした。

「受かるといいな」と誠は言った。

「受かるかわからん」と翔一郎は言った。

「受かるといい」と誠はもう一度言った。

 翔一郎は少しだけ笑った。

 苦しそうじゃない笑い方だった。

 誠は、その笑い方が、記憶の中の翔一郎の笑い方に似ていると思った。

 小学校の低学年のころ、誠が休日に家にいると、翔一郎がソファの隣に潜り込んでくることがあった。

 何を話すでもなく、ただ隣にいた。

 あのころの笑い方に、少しだけ似ていた。


 お茶を飲み終えて、二人はようやく立ち上がった。

 翔一郎が食器を片付けた。

 誠は洗おうとしたが、「いい」と翔一郎に言われた。

 それを断られるのが嬉しかった。

 何かしたかった自分がいた、ということに気づいた。

 自室に戻る前に、翔一郎は廊下で振り返った。

「タイムカプセル、来月も行くの?」

「行く」と誠は言った。

「何か、面白いもんだな」と翔一郎は言った。

「昔のことって」

「面白いかどうかはわからんが」と誠は言った。

 少し間を置いて続けた。

「重い」

 翔一郎は小さく笑って、「そうか」と言って、廊下を曲がった。

 誠は一人でリビングに残った。

 明かりを消す前に、もう一度だけ、テーブルの上の手紙を見た。


「家族も、ぜったいまもります。」

 十二歳のぼくは、そう書いた。

 まもる、という言葉を、誠はずっと「守る」と書いてきた。

 守る、は外から来るものを防ぐことだと思っていた。

 悪いことが来ないようにする。

 危ないものから遠ざける。

 それが守ることだと信じていた。

 でも、今夜ようやくわかった気がした。

 守ることとは、そこにいることかもしれない。

 隙間をつくることかもしれない。

 正しいことを言うより前に、ただ同じテーブルについていることかもしれない。


 正義は正しい。

 でも正義だけでは、人の傍にいることができない。

 誠はそれを、四十二歳の秋に、息子から教わった。


 次の週、同窓会の集まりに行って、誠は洋平に言った。

「おまえ、前に言ってたな。タイムカプセルは開けるより、持ち帰ってから面白くなる、って」

 洋平は「言ったかな」と首を傾げた。

「言った」と誠は断言した。

「あれは本当だった」

 洋平が少し笑った。

「何かあった?」

 誠は少し間を置いた。

「息子と、飯を食った」

「そうか」と洋平は言った。

「そうだ」と誠は言った。

 それだけで、洋平には伝わった気がした。

 洋平はいつもそういう男だった。

 説明を求めない。

 そばにいる。

 それが洋平の仕方だった。

 誠はそのことに、あらためて気づいた。

 いつからそこにいたんだ、と思った。

 ずっとそこにいたんだろうに、気づいていなかった。


 帰り道、誠はいつもより少しだけゆっくり歩いた。

 ランニングを日課にしている誠が、ゆっくり歩くことは滅多にない。

 だがその夜は、急ぐ気になれなかった。

 街灯の下を歩いて、風が少し冷たかった。

 もう秋の終わりだった。


 正義のために生きてきた、と誠は思っている。

 それは本当だ。

 後悔はない。

 ただ、正義というのは、思っていたより冷たいものだ。

 温もりは、別のところにある。それは法律じゃなくて、テーブルで向かい合うことだったり、緑茶を黙って出してくれることだったり、玄関の鍵の音を部屋で聞いていることだったり、する。


 誠はコートのポケットに手を入れた。

 手紙は、今日もそこにあった。

 持ち歩く癖がついていた。

「家族も、ぜったいまもります。」

 まだ途中だ、と誠は思った。

 でも、また今夜も同じテーブルに座れるなら・・まあ、それでいい。

 続きは、これからだ。


 帰宅すると、廊下に明かりがついていた。

 誠は靴を揃えて、上がった。

 リビングのドアを開けると、翔一郎がソファでスマホを見ていた。

 テレビがついていた。音は小さかった。

 翔一郎が顔を上げて、「帰ったの」と言った。

「帰った」と誠は言った。

 コートを脱いで、椅子に座った。

 翔一郎はまたスマホに目を落とした。

 二人でいる時間は、まだぎこちない。

 それでいい、と誠は思った。

 ぎこちなくていい。

 ここにいれば、それでいい。

 テレビの音が、静かな部屋に流れていた。

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